★ ぼくのわんこ。 ★
〜犬がきました 11〜




「ゾロ、飯できたぜ〜!」
「!」
 ピンっと立った耳と尻尾が可愛い。昨日御風呂に入れたばかりで、しかも犬用トリートメントまでしたので長い毛並みが、根元から毛先までツヤツヤしている。
 どうやらサンジの愛犬は犬モードでのお風呂を…長いことかかったが克服したらしい。わざと目一杯泡立ててシャンプーしてやったのに、修行僧のように耐え、シャワーで洗い流したらぶるぶるっと身震いして水を飛ばしていた。
「おい、タオルドライ!」
 と、サンジが慌てて掴まえようとする前に、犬はさっさとタオルを咥えて戻ってきた。
「…ん、わかった。すぐ拭くから待ってろよ? …ロロ」
「わん!」
 勢いの良い返事がきて、サンジは笑った。



 ゾロが、犬になったままだ。

 最初は人間の姿で居た。ただ、あの日―――ビビの誕生日から声が出なくなって、あの愛想はないけれど低くて耳に聞こえの良い音が、サンジの鼓膜に届くことはなくなった。身振り手振りで何かを伝えてこようとするたび、震えそうになるのを堪えて、なんとか平静を保って―――「口があるなら、声を出して伝えろよな!」なんて素っ気無く言ったのだけれど。
 それでもゾロは何も言わない。驚かしてみても、こっそり忍び寄っていきなり大声だしても、踵落とし食らわしても、不遜な目が文句を言うように見てくるだけで、いてっ! とか、なにしやがる! とか言わないのだ。

 うちの犬。
 サンジの、犬。
 ロロノア・ゾロ。普段は犬で、人間になれる特殊能力がある犬人間だ。うちの犬? そりゃもう可愛くってなんたって特別です。世界に一匹しかいないマイ・フェイバリット。だって、人間とお喋りできるんだぜ!

(―――なんか、ずっと…)
 腹の上を押されてるみたいに、重い。それこそ鉄か鉛を丸ごと飲み込んだみたいに、後味の悪さをずるずる引きずっている。
(なんか、仕種まで)
 超、犬臭いし。
 耳の後ろを肢でかしかしっ! ってしたり、ちょこんとお座りしたり、くあ、って欠伸したり、大人しく眠る姿、散歩に行くときの嬉しそうな様子。
 人間臭い犬っていうのがゾロだった。けど、いまは立派な「サンジさんちのロロちゃん」だ。
 いつの間にか、犬の姿のままでいて。前は唐突に人間モードで「オイ」って話しかけてきてサンジを吃驚させたのに、今はてってと寄ってきて、くぅん? のひと鳴きだ。
 まさか、マジで幻覚だったのか。サンジがさびしい余りに見た幻覚幻聴の類が「人間・ゾロ」だったとしたらあまりに物悲し過ぎる―――けれどちょっと大きめの茶碗も、二つずつ揃えられた箸や食器も、サンジが着たらぶかぶかのセーターも。
 玄関にある下駄、部屋の隅っこに置いてある作務衣とその上にはビビから借りた時代劇のビデオ…デッキの使い方なんかわからないし、そもそもサンジの家にビデオデッキなんて上等なものがあるはずがないと言ったのに、いつのまにか手先の器用なウソップに…粗大ゴミに無造作に置かれていたデッキを…修理してもらって、卑怯なことに赤だの白だの黄色だの、コードの意味などわからない犬人間は、可愛らしい子犬の姿でちょこりとおすわりして、コードを咥えて小首を傾げて「セットしてくれ」なんておねだりしてきて…! 結局、そう、デッキはサンジがメロメロになりながら設置してやったのだ。よだれのついたコードさえいとおしかった。そんなにおめぇ、時代劇が好きか、って言ったら尻尾を千切れんばかりに振ってたっけ。
 そうだ。この記憶も、残されたものも簡単になくせないものばかりだった。

 お気に入りの台所の床に、ちょこんと寝そべって、時折思い出したように尻尾をしたぱたさせているゾロを見ながら、どうしてだか切なくなる。

 実はサンジのパーカーのポケットには、ずっと、真新しい銀色の鍵が潜んだままになっていた。

 ゾロが沈黙するようになってから、物凄く焦って! 慌てて家を飛び出して商店街の靴屋さんで(靴屋さんは鍵屋さんでもある)合鍵を作ってもらったのだ。もしかしたら、寒い中をずっと待たせてたせいで風邪を引いて、声が出なくなったのかもしれない。あんなに病気や怪我には注意していたはずなのに、これじゃあ飼い主失格じゃないか。
 けれどもゾロは平然としていて、ただその唇が言葉を発することだけがなくなった。
 明くる朝目覚めてみれば、お座りした可愛い愛犬が小首を傾げていて「わん!」とひと声小さく鳴いた。朝だぜ、起きろよ、遅刻すんぞ。…まるでサンジのセリフをとってしまったみたいだ。寝坊するのはゾロだったが、寝起きが悪いわけではない。いつだって一緒に朝ご飯を食べて、お見送りしてくれるのは人間であり、子犬である―――彼だった。
 それでも茶碗にご飯を盛ってもゾロが人間の姿になることはない。
 興味なさそうに後ろ足で首の後ろをカシカシッと掻いて、サンジが動揺したまま出発しようとするとデイバッグを咥えて鼻をサンジの足に押し付けて、忘れ物をしている、と促した。賢い子犬。
 フテ腐れてるに違いねえ。たいしたことねえさ。ちょっと拗ねてるだけなんだ。そう思い込もうとした。その日一日中頭の中は真っ白で、麗しきナミさんとの楽しいトークも実は上の空で、なんか今日は様子がおかしいぞサンジ! なんてルフィに指摘されてもきっぱり否定することなんかできない。
 ドアを開けるときはビクビクしてた。開けたら古くて狭いアパートの一室は空っぽで、わんこの気配なんざこれっぽっちもしなかったらと思うと指先がじんじん痛くなる。―――元々考え過ぎる性質なのだ。アホらしい、考えてもしょうがねえ! と突っぱねようにもできないことだってある。

 あの子犬は、どう考えたってサンジの特別なんだから。

 開けた。…空っぽじゃなかった。けれど…ゾロはいたけれど。そこに「人間」ゾロはいなくて。
 おかえり、と尻尾を振りながら子犬が玄関マットの上に座っていた。


 渡せないままの鍵がサンジの手の中でサンジと同じ温度になった。






 心の中で確実に足りなくなってしまった何かを、サンジは今更思い知らされて、いる。














「あっ、さ、サンジさ…ひゃっ!」
「わわ! 危ないたしぎちゃん!」
 東海商店街はサンジの、そしてゾロの馴染みの店が建ち並ぶ。
 お約束のように目の前で派手に転びそうになった眼鏡っこを、サンジは慌てて抱きとめた。女の子の温度とほのかに香る優しい匂い。ドキーンとサンジが胸を高鳴らせていると、飼い主が酒屋の娘を助ける際思わず手放したお買い物袋を見事キャッチした愛犬が、オイ褒めろと言わんばかりに「がう!」と大変勢い良く鳴いた。
「すいませんすいません! ロロちゃんも、すいません!」
「いやいや、たしぎちゃんが無事で何よりですよぉ〜!」
 たまごを死守したロロの頭をナデナデしてやりつつ、サンジは相好を崩した。
「そういえば、ロロノアさんの具合はどうですか?」
「―――ぐ、あい?」
「暫く店に出られない、なんてお電話をいただいたものですから、てっきり体調を崩されてるのかと…! スモーカーさんは、ほうっておいてやれなんておっしゃるんですけど心配だったので…。ロロちゃん、飼い主のロロノアさんはお元気ですか?」
 しゃがんで子犬の頭を撫で始めた酒屋の娘は、心得たように、わん、と吼える"ロロ"に安心したように笑った。
「そうですか、お元気ですか」
 ニコニコ子犬と会話を成立させているたしぎもやはりどこか変わっている、としか言いようがないが、いつのまにかゾロが、サンジの知らないところで―――こんなふうに『人間になれない』ことへの下準備みたいなことまでしていたなんて。

「同居人が、」
「迷惑かけちゃって」
「ごめんね、たしぎちゃん!」

 どうしておれが謝らなくっちゃならねえんだ、と、ほっぺを抓ってやりたい相手が脳裏に浮かぶのに、そいつは足元で大人しくおすわりなんかしてやがる。
「サンジさん?」
 本当にうちのクソ野郎がお世話になって、御迷惑をかけて、なんて言うはずだった唇が戦慄いた。
 慌てて顔をあげてサンジは笑った。にへらっと笑ったつもりなのに頬が引き攣る。うまいこと笑えない。レディの前だ、しっかりしろぃ! と気合いをいれるはずが腹の中の肝がどっか移動してしまったみたいに頼りない。

 あっ、やばい、と思った瞬間、右目からぼろりと水滴が落ちて、ゾロの頭で跳ねる。

「がるる!」
 愛犬は素早かった。たしぎが気付くその前に、自分から手綱を引っ張って走り出す。あっ、と思った瞬間―――さすがは犬ぞりレースなんかで大活躍する犬種の血を引いてるだけはあって引きずられるようにしてサンジの足が動いた。
(うわ)
 ちょっとまえまでチビちゃんだったのだ。サンジの可愛い可愛いオチビちゃん。
 なのに手足も顔つきも愛くるしかったサンジの子犬は、物凄い力で痩身の飼い主と荷物をいっしょくたに引きずって走る。
「…ロッ、ゾロ! 待てって!」
 暴走なんてしたことがない。おっかけっことか、しねえの? って聞いたこともあるけど、子犬はそんなガキみてえな遊びは興味がありませんよといわんばかりにそっぽ向いてた。冷静沈着、無愛想。まったくもって子犬らしからぬ子犬…それが、サンジを引きずってる。待て、も聞かずに、吃驚して息があがった。
 たまご、たまご! 折角ゾロがキャッチした買い物袋には実に繊細な食べ物が入っている…豆腐とたまご。無事だろうか、あんなに走って―――と。
 商店街を突っ切った公園で子犬は突然急ブレーキをかけた。森林公園だ―――このへんじゃ珍しい、緑とちっちゃいけれどアスレチック、それに噴水までついてる贅沢な公園。
 夏になったら、噴水に突っ込んでいくのだ。きょとんとしている子犬を無視して飼い主が笑いながら足をつける。ルフィや、ウソップが一緒ならあいつらも子どもみたいにはしゃぐだろう。サンダルを手にぎゃあぎゃあ笑い合えば、そのうちわんこだってこっそりと、尻尾をふーりふり、しだすのだ。
「楽しいか? それ、楽しいか?」
 くりくりした子犬の目が、大人びた目じゃなくて、楽しげに言ってくる。
 日が暮れる前には水遊びをやめてベンチに転がって、シャツを乾かしながら商店街まで誰かがパシって、60円アイスを買ってくる。セミの鳴き声を背中に聞きながら、ロロはアイスのおすそ分けに目を丸くしながら舌を出す。

 ―――犬が好きだ。

 立ち止まって、おすわりして、自分を見上げてくる『ロロ』を見て強く思う。
 犬が、大好きなんだ。
 この生き物がいとおしい。そこまで、人間に尽くさなくったっていいんだぜ、と思ってしまうくらい忠義深い、愛情に溢れた生き物に触れるだけでサンジは壊れそうなくらい胸がぎゅーって苦しくなる。
 サンジの人生にはいつだってわんこやにゃんこ、とり、かめ、きんぎょ、いろんな生き物が傍にいた。
 今はこの、たった一匹しかいない不思議なわんこが―――相棒が、傍にいる。
「……二月じゃ、水浴びはできねーよな」
 噴水からチョロチョロと申し分程度に水が溢れている。まだ寒い時期だ。もうすぐ三月がくるけれど、まだ肌寒い。
「おれは」
 犬が好きだ。
「お前が好きだよ、ゾロ」
 泣き出しそうな顔で笑うサンジの頬を舐める舌のぬくもり。
「―――大好きだ、ゾロ。おれのわんこだもんな」
 ご主人様の異変には気付く立派なわんこだ。自慢のわんこ。
「おれのゾロだ」

 その一言がこんなに重く切ないなんて知らなかった。―――どうして今まで気づかなかったんだろう。

(違う)

 そっぽ向いてたのは、サンジだから。

「い、犬の…犬のおまえが好きなんだ。大好きなんだ。傍にいたい。ずっとおれのもんだ、そう思う。傍にいたい。いなくなったら頭おかしくなる。おれの…おれの犬フェチっぷりは知らねーとは言わせねーぜ! お前が一番、そう身に沁みてわかってるはずだもんなあ!」
 ゾロは尻尾をふりふりした。ああ、そんなとこまで可愛いなんて罪なおれのわんこ!
 なのにどうして?
 お気に入りの仕種、可愛くて、ムネキュン! なはずのそれが苦しくなるんだ。
 サンジを苦しめて追い詰めて、途方にくれさせるんだ。どうして?
「いっしょにいたいんだ」
 いたいんだよ、ゾロ。ロロ、なのかな。ロロ、違う、やっぱり―――
(ゾロ)
「おれがっ、名前をつけたのは―――ロロじゃねえ。ロロノアって名前じゃねえよ!」
 悔しいキモチがサンジの中を支配する。ゾロにはもう一つ名前があって、それが前のご主人様からもらったやつで、あっと気付いたらそれが嫉妬でまたびっくりする。
「ゾロだよ! ああ、そうだ、おれが一緒にいたのはロロじゃねえ、ゾロ、なんだ。お前だ。クソ、寝ぐされマリモ!」
 大好きが溢れてとまらないのは、狼犬なゾロも人間なゾロも一緒で。犬人間、ってとんでもない名前もひっくるめて愛したはずなのにいつだってサンジがあしぶみしてた。

「ゾロ」

 律儀な子犬。きっとサンジが駄目っていったからなんだ。
 忠実に主人の命令を守って―――こんなときだけ―――逆らわずに、おすわり、まて、で神妙な顔でいる。
 飼い主の動揺を戸惑いをさとって、ゾロは口をつぐんだ。人間であるより、犬であることを選んだ。それだと飼い主が安心できるからだ。ぎくしゃくしないで済む。

「お前の茶碗も、箸も、洗えねーの辛い」
 ほこりかぶっちまう。それが辛い。玄関に放りっぱなし出しっぱなしの下駄を見るのが辛い。ビデオデッキにささった時代劇のラベルも辛い。愛飲してた一升瓶が辛い。
 抱きしめてくれる腕がないのが―――たまらなくつらいんだ。

「名前、」

「もっかい」



「呼べよ、ゾロ」



 どうして気付かなかったんだろう。
 ゾロはきっと犬の神さまがくれた最愛の贈り物。



「サンジ」

 子犬は、子犬のまま大人の声を出して、照れくさそうにそっぽむいた。
 ぽかんとするサンジを残して、
「おう、やればできるもんだな。犬でも喋れた」
 そして、尻尾がふ〜りふり。


◎時間設定がこの時点で二月中旬〜下旬です。
◎5月にアップしてすいません! 一歩前進!(たぶん)

04/05/10
▽・ェ・▽

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