★ 犬になる。 ★
〜犬がきました 14〜



 初めて飼ったのはころころとした黒い子犬だった。
 垂れた耳も、ふっくらとした体も、つんつんとあっちこっちを向いた柔らかい毛並みも、何もかもが可愛らしい。
 そりゃあ夢中になって可愛がったものだ。もういい加減に寝ねェか! とジジイに怒鳴りつけられても子犬と遊びまわってた―――幼稚園のスモッグを着て、黄色い帽子を被っていた頃の話。
 うまれて初めて間近に触れた人間ではない生き物。幼稚園には大きな鳥篭があって、何匹もの色とりどりの小鳥さんがいっぱいいたし、おむかいには随分気ぐらいの高そうなネコがいたけれど、どちらも触れたことはなかったし、近づくと逃げてしまう。絵本の中のものとも違う生き物が、ワン! と元気良く吼えて、サンジにしてみれば大き過ぎるくらいの前肢を見せたとき、びっくりして尻餅をついた。負けん気が強かったので泣き出すことはなかったけれど、目はきっと涙目で、ぶるぶる震えながらも手を伸ばそうとしていたチビナスを見て、ジジイも呆れたに違いない。
 大好きな大好きな黒い生き物。そのうち幼い記憶には、従弟と赤ん坊の妹も加わって、三人と一匹で転がるように走り回り、けれどあいつは、そんなに体が丈夫でなくて、まだ小さい体のまま天国に逝ってしまった。サンジはわんわん泣きじゃくって、サンジよりもっと幼い従弟は何がなんだかわからずに釣られて泣いてしまい、小さな妹も火がついたように泣き出した。
(あんまり哀しくって、泣き疲れて熱がでて寝こむぐらい)
 ガキだったのだ。小さい脳味噌の中は、うまれて初めて強烈になにかを失った感覚に占拠されて、おつむはパンク寸前になった。けれど人間というのは器用な生き物で、パンク寸前に外へと逃がしてやるのだ。
 子犬のことはじょじょに忘れていった。最初に鳴き声を忘れて、次に仕種や癖を忘れた。それから顔かたちがわからなくなった。最後に名前を忘れて、それからぽかんと、空白ができたように子犬自体のことを忘れてしまった。
 それから時間が経って、再びサンジの周りに生き物の温もりが集まった。猫、小鳥、亀、金魚、小さなものから腕の中で抱き締められるサイズのものまで。

 中学三年生のときだ。自分は参考書を買いに、遊びにきていた従弟は漫画本のコーナーを見ていた。
 レジに向かう途中、通り過ぎた子ども向けのコーナー、子どもの目線で拾いやすい棚の上に並んだ、大きなサイズの絵本に何気なく視線をやった、そのとき、体の中を電流が駆け抜けていった。
 なんてことない、子犬が一匹、舌を出してちょこんと座っている表紙。色鉛筆でやさしく描かれたまだふわふわとした毛並みの、くりくりした茶色い瞳の子犬を見た途端、手首から二の腕の裏に一気に走った感覚。同時に、がんと頭を殴られたような衝撃。

「…クロ…」

 瞼が突然重くなって、胃の奥から這いあがってきた嗚咽が息を苦しくさせた。鮮やかに甦った、生まれてはじめて飼った子犬、サンジのともだち。そっくりだった。そっくりだ、と頭の中でなにかが言った。
「サンジ、どうした?」
 くせっ毛の従弟がどこか眠たげな顔でコーナーの間をくぐって顔をだす。
 だーっと涙が滝のようにあふれてるサンジを見て仰天したように目を見開き、慌てふためいて近づいてきた。
「なんだ! どうした、サンジ。…兄ちゃん? おい、誰かに泣かされたのかい」
「ぢがうぅ」
 はうはうと呼吸も絶え絶えに震えた指で絵本を指すと、従弟は視線を落とし、どこか既視感を覚えたように目を瞬かせる。
「うん、よくわかねえェけど、泣くな」
 はい、とヨレヨレのタオルを差し出され、サンジは涙も鼻水もそれで拭った。何年も経って甦った記憶。はじめての友だちは、絵本の表紙で嬉しそうにお座りしていた。

 犬は特別だ。愛しくて、切なくなる。溺愛したくてたまらない。それは勝手なサンジの意識だけれど、それでも。

(失うのが怖い)
 ゾロはクロじゃない。はっきり言ってクロのほうが小さくて愛想もよくてかわいげがあった。…というのもしかしおぼろげな記憶だし、実際あの絵本と本当にそっくりだったか、というと疑問に思う。けれどふとしたきっかけで甦った愛情は、溢れ過ぎて、サンジを翻弄するには充分すぎるくらいの強さがあった。
(あ)
(…ゾロ)
 本能かはわからない。けれどサンジからの口付けに、ふ、と一瞬理性を失った目がそのまま近づいてきて、喉元に噛み付いた。小さな悲鳴めいた声をあげたサンジに、我に返ったゾロがしまった、といった顔になる。
「サンジさん! なにがあったんですか! サンジさんッ!」
 ギンの声にやっとサンジも夢から醒めたような顔でゾロを見つめた。玄関の扉が揺れている。ヤクザ顔だが、妙にひとの良い管理人はこのままだとドアを蹴破りそうだ。
「―――なんでもねェ!」
 吼えたのはゾロだった。まるで獰猛な獣のような声にビクっとする。犬のときのロロ、が吼えたみたいな、ひとの声にしては独特過ぎる音。
「ロロノアさん? サンジさんに、なんかあったのかい」
「な…んでも、ねえんだ、ギン。騒がせて悪ィ」
 なんとか扉を隔てた向こうまで聞こえるように声を張ったつもりだが、震えてなかったか、どうか。

 ギンが納得してくれたかどうか。とりあえず扉を叩く音はやんだ。すると静けさに耳鳴りがしはじめる。―――喉の奥が熱い。噛まれた部分が少しひりひりする。

 黙って顔を寄せてきたゾロは、人型のまま、ぺろりとサンジの喉を舐めた。くっきりと残った歯型を詫びるように、肉厚の舌が這い、主人は肩を震わせる。
「悪ィ」
 そのまま立ち上がろうとした男の手首を掴んで、
「ダメだ」
「…ちっと頭冷やしてくるだけだ」
「ダメだ。煽ったのは、おれだ」
 爪が食いこむぐらい力強く掴むと、思いの他強い握力に、わずかにゾロが目を見張る。
「…わかんだろ、おれだって男なんだ。お前を引きとめるぐらい死ぬ気でやりゃあなんとでもできる」
「それでも、お前より俺のほうが力はある」
「トラック持ち上げるくらいだもんな」
 ふわ、と顔を綻ばせたサンジを痛いくらい凝視している。
 視線を目一杯受けとめながら、肩に手をかけた。もっと、密接した。
「わかってねえだろ、ゾロ? お前、発情してんだぜ」
 ぐう、と喉の奥が鳴った。遠吠えを噛み殺したような音。
「―――そのまま外に出て、いい匂いのするレディと仲良くするなんて、おれぁ許さない。いや、許せねェ」
「なにが、」
 一旦言葉を切り、溜息と共に吐き出される。
「…言いてェのかわからねえ」
「お前の子どもとか考えた」
「あ?」
「お前ももうすぐ一歳になる。わかってる。体つきもまだまだ子どもだけど、赤ちゃんはとっくに卒業してる。季節が変わればヒートもするし、もっともっとでかくなって、プロレスごっこしても簡単に負けちまうんだ」
「…おい」
「…いい大人になったわんこにゃ、嫁さんだって必要だろ? お前が気に入るようなレディ…犬かひとか、そりゃあおれにもよくわかんねえけど、仮に、素敵な犬のレディに惚れて、子どもができて、おまえにそっくりの、毛玉みてぇなコロッコロしたよちよち歩きのチビどもが、ぴゃあぴゃあないて、ママを探してウロチョロして、嫁さんとお前に交互に毛繕いされて、なんとか犬っぽくなって、おれはそいつらを、チビっちぇえのを、大事に大事に抱き上げる。お前の子だもん、絶対可愛いに決まってんだ。だっておれのゾロがパパなんだから、絶対可愛いに決まって」
「サンジ」
「わかんねえよ」
 肩に顔を埋めたまま震える飼い主に、すっかりゾロは戸惑っている。浮いた手が、抱き締めようか、撫でようか、空を逡巡していて、結局そっと触れたのにサンジは気付いていた。
 ゾロはサンジに従順だ。結局のところ、なんでも従って、渋々と頷き、尻尾を振る。
 ゾロはサンジのものだ。それは何度だって確認して、確信してる。
(こいつしかいない)
(こいつしか)
(もう、運命のわんこだろ)
「お前をここに繋ぎとめておきたい」
 鎖に繋いだことなんて一度としてない。首輪もゾロは嫌がって、お散歩のときだけしぶしぶつける。
 リードがなくったってこんなに繋がってる。離れない。それをわかってる。
 なのに、今サンジに必要なのは鎖なのだ。
 頑丈で、絶対に壊れない鎖。
 ロロノア・ゾロをここに―――自分に繋ぎとめておける、鎖。
「お前な」
 ゾロは眉間に皺を寄せ、それから息を吐いて、言いにくそうに視線を逸らした。
「…わかってねえだろ。お前、凄い…匂いがする。目ェ合わせてるとヤベェ。ヒトとイヌの感覚がなくなる」
「だったらずっと嗅いでろ」
「わかんねえやつだな、また噛むぞ」
「噛んでいい」
 犬の姿だったらぎょっとしたように目を丸めて、尻尾はピンと立って緊張している。
 そんな仕種で、ゾロはサンジを見つめた。
 双眸は鈍い金色。固まった樹脂の色。…狼の目だ。獲物をねぶるように見据えている。
「…駄目だ。本当に噛む。あちこち、噛むぞ。外出られなくなる」
「明日は大雪だ」
「あ?」
「明日は大雪だ。明後日も雪で交通機関が麻痺しちまう」
「もうすぐ三月だぞ」
「するったらする。おれはノースリーブを着る」
 噛め、と言われてゾロは怯んだ。そして怯む自分に驚いた。
 主人を怪我させたくない。サンジはいつだってゾロを振りまわすが、この男はゾロの中心だ。どうしてそれをわかってくれないのか、もどかしく思うのと同時に、人間の言葉をうまく使えない自分に苛立つ。
 だから、せめて態度で示してきたつもりだ。嫌いじゃねえ、お前のこと、嫌いじゃねえぞ、そういう意思をこめて、頬擦りをした。頬を舐めて、鼻っ柱をくっつけて、尻尾を振って、仕方なく腹を見せた。一緒に…寝苦しかったけど…添い寝もした。
 この状態をゾロは覚えている。秋頃だ。ビビに初めてあった頃、こんな風にわけがわからなくなる状態に陥って、サンジを風呂場で押し倒した。あのときの驚いて、びくりと肩を竦ませた、サンジの様子を覚えている。
 簡単だ。
 簡単に組み倒せる。この細くて長い手足も、確かに力は強いが、それを上回る狼犬の力がすべて封じ込める。

(おかしなことを考える)
(鼻に噛み付いてやりてえ)
(口も、真っ赤になるぐらい噛む)
(顎も、頬も、耳たぶも思い切り舐めてしゃぶる。甘噛みもする)
(喉のあたりからいい匂いがした)
(その下はどうだ? うまいか)
(こいつの目もうまそうだ)
(舐めたら怒るか、どうか)

 ぶわ、と毛が逆立つような思考に圧迫され、ゾロは呻いた。手が震える。激しい衝動が体の中を走る。
「…お前がそばに、」
 ぽつりと、サンジが呟く。
「いねえと、意味がねえよ。いやだ。嫁さん貰ってもいいから、子どもくらいおれが養ってやっから、頼むから、おれの犬でいてくれよ。他の飼い主なんかだめだ。やっぱ、だめだ。お前が他の家にいるとこ想像するともう頭が」
 興奮しているのか目が微かに潤んで水分の膜を張る。

「お前は、おれの犬になれ。おれは鎖になる」

 絡んできた腕の感触を、首の裏で知った瞬間、ゾロの理性が吹き飛んだ。



 ふとした瞬間に過ぎる、知るはずのない記憶。わけのわからない情報。
 ゾロは表面に出していないつもりだったが、サンジはそれを知らず知らず感じとっていたらしい。以心伝心も時に厄介だ。
「あぅっ…あ、」
 本当に歯を突き刺さないように、それでも強い衝動と戦いながら、ゾロはサンジの体に痕を残す。消えなきゃいい、と思う。けれど、消えない傷はつけたくない。どうしようもないジレンマはひとのものなのか、けもののものなのかわからない。
 サンジが腕をあげた瞬間、内側の皮膚にも食らい付いた。喉から寂しげな声が漏れ、それがまたゾロの聴覚を刺激する。
 こんなところ、犬のときだって舐めた試しがない。
 サンジの体臭は嗅ぎ慣れたものだった。だというのに、サンジが、こうやって挑発してきた瞬間から、なんともいえないかぐわしい香りに変貌を遂げたのだ。これで犬だったらさっさと思考力を奪われ、マウントポジションをとっていたかもしれない。
「…ろっ」
 絶え絶えの言葉が、なんとかゾロの名前を呼ぼうとしては、卑猥な音に呑まれて消える。唇を舐めたのは数度。けれどこんなに執着するものだとは、知らなかった。乾燥しやすいとぼやいていたあるじの唇は唾液で湿ってぬれている。光を反射するそれがゾロの唇や、舌や、歯を、誘っているようにしか見えないのはなぜだ。
 低く唸り、ゾロはまたサンジの半開きの口に吸い付いた。サンジの体液は甘い。これはサンジのものだからなのか、それとも人間の体液は甘いのか。舌を噛もうとするとひるんだように瞼が震えたから、注意深く吸うだけにした。口の中は柔らかい。
「俺ァ」
 舐めているうちにサンジは絶対に逃げないと、獣は学習した。
 以前は待て、と強く、引っくり返った声で命令を放ってきた。だから犬は条件反射のように我に返った。
「お前の犬じゃねえか」
 犬になれ、とサンジが言った。犬に、犬になれ、だなんて。
「―――ああ、そうか…俺も、お前がいねェと駄目だ」
 言葉にしないといけない。獣であってはならない。
 サンジを理解しなければいけない。これは、パートナーだ。ゾロにとっては唯一無二の。
「サンジ、おれはお前のもんじゃねえか。鎖になるってんなら、とっくに俺ァてめェに縛られてる」
 やっと余裕が持てた。あちこち噛み付いて、サンジのシャツもひっぺがえして、やっと、優しくなれた。
 言葉だ。使わないと、伝えられない。荒い呼吸をなんとか整えるように、サンジの皮膚に直接くちびるを這わせて、伝えた。

「お前の犬になる」

 惚けたような顔をしていたサンジの―――顔が。
 甘ったるく息を吐いた。耳朶が真っ赤に染まり、印象的な瞳がゾロばかり見ていた。
「悪い」
 そのまま我侭を言うかとおもった。いつものように、あれしろ、これしろ、と傍若無人に命令すればいいのに。
 ゾロは犬なのに。
「…おれ、変だ。はは、参った。ホント、へんだ…飼い主失格…」
 頭を抱え、うずくまり、ぎこちない様子で衣服をかき集める。震える指が隠そうとする個所に、ゾロは怪訝そうに首をかしげた。
「サンジ?」
「飼い主失格だ。本当にどうしようもねえ―――なんで―――飼い犬に…お前が好きなのに、お前がほんとにすきなだけなのに、なんで、体が」
「どうした、具合悪ィのか」
 立ちあがろうともせず必死に体をずらすサンジを追いかけるように手を伸ばすと、触れた途端、サンジが跳ねた。
「くぅ」
「…おい、怪我でもしてんじゃねえだろうな」
「違う。違ェよ、アホ。―――ート、しちまっただけだ」
 俯いた声に殺された言葉。
「15分待て。お前が大事だから、簡単にそういうのに、使いたくない」
「15分で治るのか」
「アッと言う間に」
 苦しいような、気持ちいいような、半分半分な顔でサンジはへらりと顔を崩した。
「できるかぎり、動かねぇで、おれのこと抱き締めてろ」
「わかった」
 そのときもサンジの体は震えたけれど、拒絶はしなかった。辛そうに息を吐いて、もう一度ゾロを見て、

「ゾロが好きだ」

 笑った。



◎つづく
05/03/02 happy birthday!!
▽・ェ・▽

Return?

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送