■ キセキノハナ ■ BY あきら様 |
風に乗った花びらが鼻先に舞い落ちてきて、小さなトナカイは擽ったそうに鼻を鳴らした。 「桜…?」 「いいえ、エレイヤの花びらよ」 夜空を小さな白い花びらが舞う様は、チョッパーには深い思い入れのある桜に良く似ていた。傍らの考古学者は柔らかく微笑んで、船医にその花の名前を教えてくれた。 「エレイヤ?」 「そう。古い言葉で“精霊の棲家”という意味なの。」 グランドラインでもあまり見かけない花なのだと彼女は言った。一夜のうちに咲いて散る幻の花なのだと。 「一度だけ、エレイヤの開花に居合わせたことがあるけれど…。」 真っ白い花が一斉に咲き零れ、あっという間に散ってゆく。夢のような光景だったと、彼女は穏やかな眼差しで語った。 博識な考古学者の伸ばした手のひらにも、ふわりと白い花びらが舞い落ちる。まるで風花のようだとチョッパーは思う。 「年経たエレイヤの木には精霊が宿るといわれていて、その花びらに祈れば願い事を叶えてくれるとか。」 「本当か!?」 「さぁ、どうかしら」 ふふ、とニコ・ロビンはまた綺麗な微笑を口元に刷いた。 「なぁ、ゾロ!」 興奮した船医は、通りかかった剣士に花びらを見せて話しかける。 「願いが叶う花だって! ゾロは何か願い事ないか?」 「……いや。」 酒瓶を手にした剣士は言葉少なに呟いた。 「悪りぃが、俺はそういうのは信じねぇから。」 その言葉は固い。固くてとても冷たい。 思わずチョッパーはひくりと息を呑んで押し黙った。 そんなチョッパーを見て、ゾロは少し困ったように口の端を下げた。 大きな手が宥めるようにその帽子を軽く叩く。 「―――悪かった。」 小声で謝った男はそのまま船尾へと歩いていく。広い背中を、船医と考古学者は黙ってじっと見送った。 しゅんとなったチョッパーの肩をロビンの手が優しく抱く。 「……仕方ないわ。日が変わればもう11月11日ですもの。」 ロビンの言葉にこくりと頷いて、小さなトナカイは夜空を見上げた。瞬く星の間から零れるように、はらり、はらりと花びらは舞い落ちる。 もともとそう口数の多い方ではなかった剣士は、この数年でさらに寡黙になった。特にここ数日、ゾロはひどく無口だ。いつものようにマストに寄りかかっていても、研ぎ澄まされた抜き身の刃のような気配を漂わせたままで。 それは無言で他人が傍に寄ることを拒否しているようで、チョッパーはひどく哀しくなる。 誰もがその理由を知っている。 11月11日。 この船が―――彼を失った日だからだ。 ◇ ◆ ◇ キィ、と木の軋む音がした。ラウンジのテーブルで日誌にペンを走らせていたナミは、その音を聞いてふと顔を上げた。 ラウンジの入り口に立っていたのはトナカイの船医だった。随分としょげたその様子に、ナミはペンを置いて向き直る。 「どうしたのよ、チョッパー。」 肩を落としたチョッパーの後ろから続いて入ってきたロビンが、少し困ったように微笑んだ。 「ちょっと、ね。」 慣れた仕草でロビンはケトルを火にかけた。いくつも並んだ缶から好みの茶葉をチョイスしてお茶の用意を始める。 こんなとき、温かな飲み物は心も温めてくれる。そのことを、この船の誰もが知っていた。 それだけで、ああ、と状況を察したナミは、立ちあがって戸棚の奥からクッキーの缶を取り出した。 蓋を開ければ、甘いバターとバニラエッセンスの香りが零れだす。 こぽこぽとポットに湯の注がれる柔らかな音がする。琥珀色の液体が白磁のカップに満たされる。 黙って差し出されたお茶とクッキーに、強張っていたチョッパーの表情も、ようやく解れたようだった。それを見てナミの顔にも小さな微笑が浮かぶ。 一杯の温かなお茶と少しの甘い菓子に心を慰められることを、誰もがここで教わった。 さくりと薄い焼き菓子をほおばれば、口の中にふんわりと柔らかな甘みが広がった。 (うん、美味しい。) 絶対に食い散らかすなと底なし胃袋の船長には厳命してある焼き菓子は、グランドラインでも名の通った老舗のもので、一つ一つに職人の技が詰まっている。女性クルーのおやつとして常備するようになったものだった。 (……美味しいのよ、ちゃんと。) なのに、今でも時々ふと物足りなさを感じることがある。 食後のデザートに、三時のお茶に、あるいは眠れない夜に。たびたび供されていたあの優しい味は、もう記憶の中にしか存在しないことを―――知っているのに。 「マズったなぁとは思ったのよ。予定外に船が進まなくて。」 一口茶を含みながらナミはぽつりと呟いた。 「よりによってこの日に、この海域だなんて。」 ゴーイングメリー号は群島の海域に差し掛かっていた。ほとんど岩塊としか言えない小さな岩山から、人の住む街が存在するところまで、大小様々な島々が数百も集まっている場所だ。 三年前にも船はこの海を渡った。そして――― 痛みを吐き出すように、ナミは小さくため息を零した。 どうにもやりきれない想いを抱え込んだままの心が、ふとした折に悲鳴を上げるのだ。 「…………。」 無言でナミは、すい、と傍らの灰皿の縁を指でなぞった。 陶製の灰皿は、青い色が気に入ってナミが買ってきたものだった。少しは喫煙量を減らせとの意味も込めて、小さなサイズを選んだのを覚えている。 ―――それはもう感激されたことも、覚えている。 チェーンスモーカーには使い勝手が悪かったはずのその灰皿は、それでも大切に使われていた。 指先を、灰皿の真ん中を横断するヒビへと滑らせた。 粗忽者の多いこの船だ。何かの拍子にうっかり床に落とされて真っ二つになってしまったのは、もう結構前のことで。 誰も使わない灰皿は、だが、処分されることはなく。 ウソップの手で綺麗に修理され、また元のようにテーブルの上に鎮座して―――そうして戻ることのない主を、ずっと待ち続けている。 静かな静かな夜の茶会は、それ以上の会話をもたらさなかった。まだ思い出話になどしたくないから、この船では誰も彼のことを語らない。 ◇ ◆ ◇ 昔から自分の誕生日が嫌いだった。 ゾロにとってのそれは、イコールで喪失の記憶と繋がっている。 最初は母親だった。あまり丈夫ではなかったらしい彼女は、ゾロを生んだその日に、生まれた我が子を抱くこともなく、二度と手の届かない遠いところへ旅立って行った。 次は――――くいな。 親友で好敵手でもあった少女は、冬の足音が聞こえ始めたこの日、階段から足を滑らせて、あっけなくその短い生涯を終えた。 ゾロを育ててくれた祖母が逝ったのも、何度目かの11月11日で。 だからゾロは自分の誕生日が嫌いだ。 大切なものを失いつづけるこの日が大嫌いだ。 星を肴にゾロは独り酒杯を傾ける。 酒を覚えてからずっと、11月11日をゾロはこうして迎えてきた。 弔いの酒というつもりでもなかったが、他人を側に寄せたい日ではなかった。 ―――そんな話を寝物語にしたのはいつだっただろうか。 『アホだなぁ、テメェは』 耳の奥に蘇る懐かしい声を、振り切ることは出来なかった。 『テメェの全部が始まった日なんだぜ?』 与えた熱の余韻を残した、普段よりも温かだった肌を覚えている。 『……まぁ、気持ちはわからねぇでもねェけどよ。』 嫌いになるなよ、勿体ない。 そう言って笑った顔も、声も、はっきりと覚えている。 『次は俺にも付き合わせろ。』 静かに笑ってあの男は言った。 お前は今までどおり、遠くに行ってしまった人たちを悼んでやればいい。代わりに。 『―――隣で俺がテメェを祝ってやるから。』 その声を、覚えている。 グラスの中に落ちた花びらが波紋を描いた。 願いの叶う花だと、先ほど船医がそんなことを言っていたのを思い出す。 ゾロは口の端にひどく昏い笑みを浮かべてその酒を飲み干した。 願って叶うことなど一つもない。祈りなど何処にも届かない。 昔から知っていたことだ。そうして三年前にも思い知らされたことだった。 あの日もこんな風に、白い花びらが舞っていた。 はらりと降ってきた白いものに、ゾロは思わず空を見上げた。一瞬雪かと思ったがそうではないようだ。空気は冷え込んできてはいたが、樹々の枝の間から見える空には幾つもの星が瞬いている。 「花…」 雪に似た白い花びらは、何処からか風に飛ばされてきたのだろう。 かさり。 枯れた草を踏む音に、ゾロは音のしたあたりを睨みすえた。 そんな剣士の視線の先で、ウサギに似た小動物がびくりと怯えたようにすばやい動きで逃げて行く。 ほっと息をついた。 つい数時間前までの喧騒が嘘のように、あたりは静まり返っていた。静かで静かで、だから余計に気ばかりが焦る。 「おい、クソ剣士…。」 掠れた声に、ぎくりと背中が強張る。聞こえないふりをして、ゾロは振り向かなかった。 「おい…、聞こえてんだろうが。」 大声出させんな。呟くような声と身じろぐ気配に、ささやかな抵抗さえ許されず、彼の方へ向き直らされる。 「ゾロ…」 「しゃべるな、クソコック。」 見たくない。こんな青褪めた顔など。 「―――置いて行け」 聞きたくない―――そんな残酷な言葉など。 サンジの左大腿部にきつく巻きつけていた止血帯代わりのネクタイを緩める。長時間締めつけたままだと、足が壊死しかねないからだ。 まだ止まっていない出血にゾロは舌打ちした。 「もういいって……」 サンジの声はひどく小さい。ぐったりと上体を木の幹に預けて目を閉じている。先ほどまで早かった呼吸は、浅く緩やかなものになっている。意識を保っているのもやっとなのだろう。 血を、流しすぎて。 「黙ってろ。」 分かっている。この足ではもうサンジは歩けない。 これだけの傷を負って、ここまで逃げてこられただけでも奇跡に近いのだ。 「海軍の奴ら、また来るぞ。テメェだけならまだ逃げられる…」 浅い息と、掠れた声。 動けないサンジを抱えて海軍の精鋭の中を突っ切ることは、いくらゾロでも不可能だった。片手を塞がれるというだけではすまない。行動の全てに途方もないハンデを抱えることになる。 だから足手まといは置いて、今のうちに一人で逃げろ。そうサンジは言うのだ。 「……どうせ時間の問題だろうが」 「黙ってろって!」 唸るように吐き捨てて、ゾロはぎり、と奥歯を噛み締めた。 例えばここにいるのが自分ではなくチョッパーだったら。あるいはもう一人、誰かがいれば。そうでなくとも少し粘れば皆と合流できるのなら。 そうしたら状況はまたきっと違っていたかもしれない。 だが、ゴーイングメリー号の乗員たちは散り散りに船から引き離された。そしてここに船医はいない。どうしているのかもわからない。船が今どこにあるのか、自分たちがいま何処にいるのかさえ、わからないのだ。 「―――ゾロ、置いて行け」 分かっている。サンジの傷がもう自分では手の施しようがないことくらい。 どれほど否定したくても、幾多の修羅場を潜り抜けてきた剣士としての経験が、嫌になるほど冷静にゾロに事実を告げていた。例え海軍に見つからなかったとしても、じきに出血多量でサンジは死ぬだろう。 ち、と鋭い鳴き声を残して、夜には飛ばないはずの鳥が頭上を羽ばたいた。 「!」 遠い人の声を、鋭敏化したゾロの聴覚が捕らえた。 「ゾロ…!」 ゾロの緊張がサンジにも伝わったのだろう。無理矢理上体を起こそうとするのを、慌ててゾロは支えた。 伸ばされたゾロの腕にサンジの手が触れる。指先はもう冷たかった。 いたか? こっちだ。 そんな声が近づいてくる。ゴーイングメリー号の連中ではない。 「おい、ゾロ…!」 どこにそれだけの力が残っていたのだろう、サンジの骨ばった指がゾロの腕をきつく掴んだ。 「テメェ、ここで俺と心中する気かよ…!!」 炯々とした光を浮かべた青い瞳が、ゾロをぎっと睨みつけた。 「テメェはこんなとこで死ぬわけにゃいかねェだろうが…!」 約束と、誓いとを忘れるな。 選ぶ余地などないのだと、サンジの言葉と視線は容赦なくゾロの一番痛いところを貫いていく。 近い距離で視線が合う。死にかけのくせに瞳の強さは変わらない。だから余計に胸の奥が痛くなる。 行け。 目でそう言われた。気迫に押されるようにゾロは片膝を立てた。サンジの目が柔らかく笑うように眇められる。 人間の声はますます大きくなる。おそらく片手ではきかない人数が近づいてきているのだ。 気配の方を睨みすえたゾロにサンジはもう一度口元を緩め、とん、と軽く突き放すようにして腕を放した。 腕と一緒に、何か他のものまでサンジが手放したことにゾロは気づいた。カッと腹の中が熱くなる。 どうして、どうしてそこで笑うのだ、この男は! 『行け』 唇の動きだけで綴られた言葉。 「……待ってろ。必ず迎えに来る」 「―――ああ。」 手早くバンダナを頭に巻くゾロに、サンジがまた静かに笑う。 「待ってる。」 それは嘘ではないのかもしれないが、本当でもない。ゾロを待つ時間はもうサンジには残されていない。それをわかっていて、それでも“待っている”と口にする。ゾロを行かせるために。 ―――たまらなかった。 「……待っててやるから…」 もう一度呟いて目を閉じかけた男に、ゾロは腰から一刀を鞘ごと引きぬいて押しつけた。 「…っ!?」 それが何であるかを知ったサンジが目を見開いた。ずしりと重い、常にゾロとともにあった白鞘の――― 「っ、オイ…!!」 「迎えに来るから、それまで自分の身は自分で守れ、いいな!」 言うなりゾロは残りの二刀を抜き放った。 「預かってろ、あとで返してくれりゃあいい」 「ゾ…!」 それ以上はもう聞かなかった。振り返ることもしなかったから、彼がどんな顔をしていたかはゾロにはわからない。 なるべく自分に注意を引きつけるように走った。行く手に現れる海軍の兵士を斬り倒し、なぎ払い、小船を奪って島を出て。 ゾロがようやく他のクルー達と合流できたのは、それから二日後のことだった。 しつこく追いかけてくる軍艦をやっとのことで全て撃退したときには、さらに三日が過ぎていた。 サンジを残してきた島は、数百もある他の島々に紛れて、もうどこだか分からなくなってしまっていた。 サンジと最後に言葉を交わした、その日が11月11日だったと、船に戻ってはじめて気づいた。 だからやっぱりゾロは自分の誕生日が嫌いなままだ。 |
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