■ キセキノハナ ■ BY あきら様 |
ひらりとまた花びらがグラスに舞い込んだ。 何処から運ばれてくるのだろう。思い出したようにはらり、はらりと、白い花びらは途絶えることなく風に舞う。 白々とした月に照らされた甲板は、明かりがなくともさほど不自由はない。手すりに寄りかかった剣士は、その花びらを眺めながら、一人酒杯を口に運んだ。 「本当に桜みてぇだな。」 ほのかに紅を含んだあの花よりも、エレイヤのそれはもっと白い。それでも、雪白の花びらが舞う様は、故郷で見た桜吹雪を思わせる。祖母も、くいなもあの花を愛していた。 一息に空けたグラスに酒を注ごうと、ゾロは壜を持ち上げた。身を捩った拍子にどこかぶつけたのか、傍らに立てかけておいた刀の鞘が鳴る。 赤と黒の二刀をゾロは見やった。 そこに白鞘の刀はない。和道一文字は、あのときあの男の許に置いてきた。『あとで返せ』と、その言葉とともに。 おそらく二度とゾロの手に戻ることはないだろう。だが後悔はしていない。 暗い森の中、一人残ることを選んだ彼を一人にしたくなかった。だから、何よりも自分に近いものを置いてきた。心の半分を置いてきた。 野望を誓った形見の刀は無くとも、約束のことも、くいなのことも、全てはこの胸の中にある。忘れていない―――だから、かまわない。 ゾロは再び酒の壜を持ち上げた。用意したグラスは二つ。空けた一つと、減ることのないもう一つに同じように注ぐ。 そろそろ日付が変わる頃だろう。11月11日、自分の―――誕生日だ。 『隣で俺がテメェを祝ってやる。』 果たされることのない約束の上にも白い花びらが降り続ける。 カップの底を眺めていたチョッパーが、ふと顔を上げた。 かちりと、小さな音を立ててラウンジの時計の二つの針が重なった。 甲板の上を風が吹き抜けた。 海風が甲板に散った白い花びらを再び宙へ巻き上げた。 一瞬の突風が吹きぬけたあとは、またはらはらと暗い空から舞い落ちる白。 その白の中に、不意に異なる色彩が紛れ込んだ。 「―――ッ!?」 月明かりの下、ほのかに浮かび上がる金の色。 ゆるりと開かれ、真っ直ぐにゾロを見つめた瞳は、鮮やかな真昼の海の色。 吹き散らされた花びらが垣間見せた、それは一瞬の幻。 「サン…ッ!」 風が吹く。 しっかりと結ばれていたはずのロープがするりと解け、巻き上げられていた帆が落ちて風を孕んだ。 投錨したままの船体が大きく揺らぐ。 「ちょっと…何よ!?」 思わぬ船の揺れにラウンジから飛び出してきた航海士は、目の前で昨日取り替えたばかりの錨綱がふつりと千切れるのを見た。 まともな展帆作業もしていないゴーイングメリー号の帆は、綺麗に風を捕まえ、船は月明かりに照らされた海面を滑るように動き出した。 ◇ ◆ ◇ 「止まったみたいね…。」 船の行く末をじっと見守っていたナミが呟いた。 目の前にはごつごつとした岩場と切立った岸壁が見える。 面白がったルフィは好きなように船を進ませたのだが、複雑に入り組んだ海底を持つこの場所でよく座礁しなかったものだ。ナミは内心安堵の息を零した。 ここでもまだ白い花びらがいくつも空から舞い落ちてくる。つられるように上を見上げた。 暗くてよくわからないが、崖の上には深い森があるようだ。人の住む島ではないようだった。 「ど、何処に着いたんだ…?」 航海士の声に、甲板の隅で頭を抱えてがたがたと震えていた狙撃手と船医がようやく顔を上げた。 「一体なんだったんだよ、オイ…。」 おそるおそる船縁からあたりを見回したウソップは、月明かりに真っ黒なシルエットを浮かび上がらせたぼろぼろの船に、ひっと悲鳴をあげかけた。 ゴーイングメリー号よりもずっと大きな船だった。三つのマストを全てへし折られ、船体に大穴を開けた無残な姿を波間に晒していた。 「何だぁ? 難破船かァ?」 「海軍の船のようね。」 ぼろぼろになった帆には、かろうじて海軍のマークが見て取れる。 「座礁でもしたのかしら?」 「いや…。」 ナミの呟きに、それまで黙っていたゾロが低い声で答えた。 「俺が砕いた。三年前。」 覚えている。言葉にもならない激情を抱えて、そのくせ酷く冷静に二刀を振るった。 「ゾロ! それって…!」 ゾロの声が震えた。 「間違い、ねぇ。」 強く、強くゾロは拳を握り締めた。噛み締め過ぎた口の中に血の味がする。 三年前、この島に―――彼を置いてきた。 ◇ ◆ ◇ 小さな島は深い森に覆われていた。夜の森は静かだったが、豊かな緑とそれに支えられる様々な生命の息吹に満ちていた。 「何か耳が痛い…。」 チョッパーは小さな声で呟いて、不安げにあたりを見回した。 森に入ってから、何だか耳の奥で何かがざわめいているような感じがする。 誰かが何かを言っている、なのに何を言ってるのかはまるでわからない。意識して聞き取ろうとすれば、声らしきものは遠くなっていく。 何かがそこにいるような気がした。見上げた樹々の枝の間に。下草の陰に。密かに息づく気配のようなもの。 「……でも、悪いものじゃない、よな…?」 小さなトナカイは、確かめるように前を行くゾロの背中を見やった。 悪意ある存在ならば、あの剣士が誰よりも敏感に感じ取るはずだ。その男は立ち止まることなく森の中を進んでいく。 「何だろ…」 もう一度チョッパーは耳をすませた。 遠いような、近いような、不思議なざわめき。耳の奥をくすぐるヒトの声のようなもの。 呼んでいる? 何を―――? 「おいチョッパー、置いてかれるぞ!」 ウソップの声にチョッパーは我に返った。気が付けば大分仲間たちから離れてしまっている。 小さなトナカイは慌てて一行の後を追いかけた。 森に足を踏み入れた途端、あまりにも鮮やかに蘇った記憶に、ゾロは眩暈を堪えて立ち尽くした。 最後に見た笑顔と、最後に聞いた言葉と。それは今なお鮮烈な痛みをゾロに突きつける。 腹の底からこみ上げてくるものがある。思わず叫びだしたくなるほどの、それは言葉に似た、だけれども決して形になることのないもの。 どうしようもなかったことだった。あのとき自分たちを追っていたのは海軍の中でも精鋭と名高い部隊だった。自分も手傷を負っていた。彼はもう歩けなかった。逃げる場所など何処にもなかった。 もう終わってしまった出来事は、それでもいつまでも癒えない傷となって今でも血を流し続ける。やり直すことの叶わない仮定など虚しいばかりだというのに、何度も何度も繰り返し思わずにいられないのだ。 もしもあのとき、と。 「ゾロ…。」 「………。」 案ずるような誰かの声に背中を押されて、ゾロは一歩を踏み出した。 迎えに行くと約束した。だから、行かなくては。 喉の奥の痛みを飲み込んで、ゾロは黙したまま歩き始めた。 あの日、二刀を振るって切り開いた道を、あの日とは逆に辿る。 こんな右も左もわからないような森の中なのに、自分がどんな道を進んだのかさえも、不思議なほどはっきりと思い出せた。 何度か仲間たちから声をかけられたようだったが、ゾロは立ち止まらなかった。何かに急かされるかのように、ゾロはひたすらに歩き続けた。 優しい香りがふわりと風に乗ってかすかに鼻腔をくすぐった。強い香りではなく、甘いというよりは涼しげと言ったほうが相応しい。 下草の中の枯れた小枝が踏まれてぱきりと小さな音を立てた。 木立が途切れ、視界が開ける。 ゾロは呆然とそこに立ちすくんだ。 視界を埋め尽くす一面の白。 降り積もった花びらが、まるで純白の絨緞を敷き詰めたかのようだった。 「……エレイヤ…」 後ろで聞こえた感嘆の呟きは考古学者のものだ。 真っ白な花びらが音もなく降りしきる。年経た巨大な古木の枝の隅々まで、小さな花は咲き零れて。 淡い光を放つ花は白い炎のように燃え上がる。 それは夢のように美しい光景だった。 言葉もなく一同が立ち尽くす中、ゾロの目はただ一点をじっと見つめていた。 一面の白のなか、ぽつりと。 それは残されて。 気づいた誰かが息を呑んだ。 誰もが一言も発せずに見守る中、ゾロは静かにそれに近づいた。 歩みを進めるたびにふわりと花びらが舞い上がる。 はらはらと。 途切れることなくひたすらに花は降り続ける。 古木の根元にそれはあった。 突き立てられた鞘は花と同色の白。傷の一つ一つまで覚えている。十年もの年月をともにした相棒だ。忘れるはずもない。 ゾロは震える手でそれを引き抜いた。 和道一文字。 光の弾けるような声がした。 「きゃあっ!」 「な、なんだっ!?」 一斉に耳元で声が弾けた。 一人のようでもあり、大勢のようでもある男とも女とも、子供とも大人ともつかない声。 木霊が響くように、頭上から降るように、遠くから、近くから。 約束 刀 大切ナ 大切ナ=@ それは本当は音ではなく、多分ヒトの言葉でもなかった。直接聞く者の心に意味を伝えてきた。 ひどくたどたどしい、だけれども決して耳障りではない声で、繰り返し、繰り返し、想いを運ぶ。何度も何度も、ただ一人の名を繰り返す。 アイツノ ゾロ 約束 ゾロ ゾロ ……ゾロ 「ゾロ」 耳の奥で弾けた最後の声はサンジのものだった。 「ゾロ」と。 とても柔らかな口調で。 『アレだな。テメェがその刀振ってんの見るの、俺ァ結構……好きかもしんねぇ。』 いつだったか、月明かりの夜にそんなことを言って笑っていた。 白鞘の鯉口を切れば磨きぬかれた刀身が姿を現す。三年ものあいだ風雨に晒されたものではない。あの日ゾロが置いてきたままの姿で刀はここにある。 古いエレイヤの木には精霊が宿る。 願いを。 “叶えてくれるの” それは考古学者の言葉だったか。 あの日もこの花びらが空に舞っていた。 ならば願ったのか。彼が。この刀をゾロのもとに戻すことを。 手の中の和道一文字をゾロは見やった。いつも近くにあった馴染んだ重み。 「……馬…鹿か、テメェは…!!」 恐ろしく力のこもった声をゾロは唸るように絞り出した。手負いの獣のような声だった。 約束をした。確かに自分は返せとは言った。 確かにこれは大切なもので、親友の形見で、今までに二度、野望を誓った証ではある。 だけれども。 「―――ただの、刀だろうが!」 これが夢そのものではない。たとえこれを失っても、自分が夢を失うわけではない。 ゾロの手にこの刀を戻すことよりも、もっと優先することはあっただろう!! 「そんな声で呼ぶくらいなら、なんでもっと…!」 なぜ一番に考えなかったのか。願わなかったのか。生きて仲間のもとへ帰ることを。 約束 ゾロ 悲しみよりも憤りの方が強かったかもしれない。 「人のことを約束バカだなんだと散々言ってくれたくせしやがって。」 自分よりもあの男の方がよほどの馬鹿だ。救いようのない馬鹿だ。 繰り返される声を振り払うように、ゾロはエレイヤの樹を睨みすえた。 「……約束なら他にもあるだろうが。」 迎えに来ると告げた。 待っていると言われた。 「来たぞ。おまけに今日は俺の誕生日だしな。」 『テメェは今までどおり遠くにいっちまった人たちのことを悼んでやれ。仕方ねぇから隣で俺がテメェを祝ってやるよ。』 それを言ったのはあの男だ。 約束した。 「祝ってくれんだろ―――なぁ…!」 降りしきる花びらを見上げてゾロは手を伸ばした。 戻せ。 あの日、手を離してしまった存在を。 あの笑顔を。あの声を。 願えば叶うというのなら。 ざあ、と風が花びらを巻き上げた。全てを染め上げる白の中で、ゾロが何かを受け止めるかのように両手を広げるのをチョッパーは見た。 そこに懐かしい色彩が見えた気がして、強い風に閉じた瞼を必死にこじ開ける。 あたり一面の花びら。どこまでも、どこまでも白く染めて。 視界の全てを埋め尽くす白の中で、ゾロの目はそれだけを必死に追いかけた。 ゆらゆらと不確かな、だけれどもとても懐かしい気配。 戻れ。 そう叫んだつもりだったが、声になっていたかはわからない。 風がやむ。 舞い落ちる花びらと同じように、それは柔らかくゾロの腕に落とされた。 触れた布地の感触は、すぐに確かな重みへと変わる。 懐かしい金色の髪。 青い瞳は閉ざされたままで。だけれども確かにその身体は温かかった。 ゾロ ゾロ 誕生日 オメデトウ 光の声が弾ける。それは多分三年前に贈られた、果たされなかった約束の言葉だ。 「……悪かねぇが、人伝えにしねぇで直接言え。」 小さな声で呟いて、ゾロは一度だけ金色の頭に頬を寄せた。 伝わってくるかすかな鼓動。 ほのかな煙草の香りがする。 胸の中にじんわりと広がったものが、瞳から溢れて頬を伝った。 温かい水滴は、ぽつりぽつりとサンジの頬も濡らしていく。 ぴくり、と白い指先が震えた。 駆け寄ってくる仲間の足音を聞きながら、ゾロは青い瞳が開かれるのをじっと待った。 Happy Birthday ZORO |
◎言葉など、殆ど要らないと思うのです。 ◎なにがそこにあって、なにがそこに生きていたか。 ◎とにかくひたすらに、両の腕を傷付けても相手を抱きしめることを止めないような優しさにもどかしさと愛おしさを抱くのは、決して剣豪だけではないように。決して決してよろこびもかなしみも一人では昇華しないように。 ◎あきらさん、素敵なノベルをありがとうございました! |
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