【 月天絶対生存論 】


「いいか、生き残りたければ」
 血を舐めて、咽喉が微笑う。
「気が狂わずにいろ」





だんだらだん。

  鐘のおと。

 だんだら だだん、

   大地のおと

だんら だら だん

祭りのお と、

 だん、だらだ だだん だん



「気が狂うだろうが、コラァ!」
 サンジは吼えた。






月天
 昇陽
  逢魔
   灼熱
    夜間
     煉獄
      既死魄
       吉日
        水剋火
          悋気           〈〈 絶対生存 〉〉
         迎火
        流水
       彼岸
      陰陽
     虚空蔵
    暁天
   雷電
  風媒花
 伽藍
東風








 唾を吐き捨てる、という行為は相手を挑発したり貶めたりする仕草だ。中指をおったてる、あるいは親指で喉元を切る。暴力的かつ下品な真似もレディの前では控える料理人も、さすがにだらしなく襟元を緩めて黒いズボンから足を剥き出しにしてへたっている。
 今にも唾を吐き捨てそうな、そんな不機嫌なツラをしているわりに喉はこくん、と息ごとそれを嚥下する。

 正直、吐き捨てる水分はない。勿体なくてとてもじゃないができない。

 すっかり真っ赤になった指が少し不憫に思えた。ロロノア・ゾロはごつごつとした岩から身を起こし、そろそろと腕を伸ばす。「おい」
 サンジの喉がまた上下する。息を何度も飲むのは水分が足りていないせいだ―――。
「おい」
「うるせえ、黙れハゲ」
 心底厭そうに片手を振り、サンジは凍傷した手先を隠すように丸めた。
「ハゲじゃねえ、このまゆげ」
「うるせえ脳みそハゲ。黙ってろこのクソまりも…俺ァなあ」
 そこでやっとサンジは胡乱げな片目をあげて憎々しげに呟く。
「考えてンだよ、此処からの脱出方法を」
「そりゃあ俺もだ」
「寒く死にそうだ」
「全くだ」
 喧嘩する気力もなくなって、両手両足を投げ出してゾロとサンジは岩肌に転がる。
「この島は冬島じゃない、極寒島だ―――」
「おい、クソコック」
「なんだ、クソ剣士」
 じいと波間を睨んで…目を凝らして船影を探していた仏頂面が振り向くのを見て、ゾロは身を乗り出した。
「手ェ出せ」
「―――あー?」
 普段なら何でてめえなんかに、だとか余計な罵声がついてくるはずなのだが、この気の荒い料理人の体力も―――そう、限界なのだ。
「………」
 伸ばされた指をまじまじ見つめる。迷わずにそれに口を寄せ、ゆっくり舌で包み込むとぎょっとしたようにサンジが肩を震わせた。「おい!」
(うるせえバカ)
 目の前には大海が広がるというのに、今、二人がぐったり身を投げ出すこの岩場の一寸先は絶壁だ。海に落ちれば魚も水もあるのに、落ちたら最後、這い上がることも出来ない。
 その様子を見てサンジの顔が強張り、唸るように喉を鳴らした。その忌々しいものを見るような眼差しにゾロはなんだか見入ってしまった。
 時々、サンジの片方しか見えない蒼い目は、唸り声をあげる。
 そう、あれは唸りだ。うなりでありうねりである。この男は身体の内に嵐を飼っているのだ。
 この島の水が飲めないと知ったときも、火を起こす材料が何一つないことがわかったときも、神妙な顔をしているなか、果たして瞳は暗がりで輝いていた。決して上品とも美しいともいえない目の輝きは、陽光をも飲み尽くす貪欲な目だ。箍が外れたら恐らくサンジという存在はゾロより何かを破壊する範囲が広かろう。
 ひたすらに自制しているだけの禁欲さであって、それに加えて普段は料理人としての誇りと優しさが両手のひらに乗っかっている。つまりは、純粋な戦闘員として数えるのであればゾロより始末が終えないというわけだ。

 細やかな網膜の襞まで透き通る青い眼は、炯々と天空を睥睨する。

 もう少しだけ視界が利けば、ゾロはその不遜に天を睨む男の頬が僅かに強張り、そして赤らんでいたことに気づいただろうに残念ながらそこまでの鋭さは持ち合わせがなかった。また、指を食まれ、舐められるという原始的でセクシャルな意味にも繋がりかねない危険な行為を黙認したサンジは、それからゾロが何もしなかったために犬歯を鳴らした。
 いや、決して不満なのではない。とんでもないことをしやがってという動揺は暫く前に消えた。ドーブツだ、ドーブツ。相手は野性なのだと思うとすとんと消えた。ただ、一瞬だけでもうろたえてしまった自分が悔しくて内なる嵐は燃える。
 早く、柔らかなラインのあの美しい生き物たちの居る船へと帰りたい。ナミを思い浮かべ、ロビンを思い浮かべ、サンジは落胆した。ゾロのラインを眺めた。滑らかではあるが柔らかくはない。
 ゾロは腕を組んでじっと真夜中の海を見つめている。サンジの視線にある程度気づいていたが、とりあえずは今は懐かしい羊の船首を探そうと目を凝らしていた。
 ふたりとも、普段と変わらない服装である。骨まで震撼するような、厭な寒さは慢性的に疲労を費やしていく。
 日が落ちたときから、危険だという自覚は剣士にも料理人にもあった。
 雪が降るわけでもない。
 地面が凍りついているわけでもない。

 ただ、ただ、底冷えする島。凍て付いた島。

 なんであっても、此処は双方には不似合いな場所である。食料もなければ海にも届かない。敵襲もなければ目指すものもない。
 料理人はこういった孤立した状況を苦々しく思う。一人の果てない孤独より、隣の男の予測できない行動のほうが3時の心胆を凍らせるだろう。この男は背に傷をつくのを拒み、肩から腹に消えない痕を残すのをいとわない。戦えずに死ぬくらいなら足を切り落とす男。足を、脚を。瞬間的に殺意めいたものが湧きあがり、サンジは慌てて左手を押さえ、爪を立てそうになる指を宥めた。
 さて一方剣士は“戦えない”現実に閉口していた。重い体で自由が利かずに、魚人に掴まった際も、あるいは余りに単純過ぎる罠にかかり砂を操る七武海の男に嘲笑を食らった際も、ハラワタが煮え繰り返る気持ちと、妙に冷え冷えとした気持ちとが混合して居心地が悪かった。足らねェな、と思う。力は、埋まるだろう。差は縮み、いつか飲み込むだろう。どれほど愚かしい傲慢だと笑われても、ゾロはそれすら越える気でいる。
 だというのに、此処にはサンジが料理を作り与える仲間もいなければ、ゾロが好む酒もない。日溜りが当たると一番心地よい甲板、ゾロの昼寝の低位置もなければ、いつの間にか手入れが楽しくなった蜜柑畑のサンジ専用のじょうろもハサミもないのだから。
「ナミさぁん」
 お花よ、お花。何処にいらっしゃるんですか。とうとう言動まで怪しくなってきたサンジを奇異の目でゾロは見つめ、ふと思い直して視線の意味を変えた。不憫なやつ、という色だ。
 サンジは何を思ったか、くるりとゾロに向き直り、にいと笑った。白い歯が一瞬月明りで煌いて妙にいやらしいなあと思いゾロは瞬き、これがすべて計算された演出だったらもっと厭だなあと思ったところで、サンジの膝がゾロの右っ腹をしたたか打ち付けた。
「そんな頭の弱いガキを見るような舐めた目すんな。潰すぞコラ」
 どの世の中にも、こと悪口や悪意だけには敏感な人間がいる―――ゾロの目の前で肩をいからせるそれがまさに、その具現だ。サンジのスーツの肩あたりを月光が灼き、しまった、とゾロは舌打ちする。
「じゃれてる暇はねえ、月が昇った!」
「ォあ!? てめえとじゃれた覚えは―――ッ! …っ、クソ! またかよ!」
「空を見るなよ」
「…言われなくても!」
 最初の晩はこの島の特異点を知らなかったために、散々な目に合った。
 ゾロの手足の皮はずる剥け、左肩に歯型がくっきり残っている。サンジは両膝と腰のあたりに砂利で擦った傷が残り、また、左頬が四日経った今も熱を持っている気がする。
 サンジの横っ面を叩いた張本人は、徐々に濃くなって行く自らの影に舌打ちし、ゾロの腕に噛み付いた犯人は無言で夜を警戒した。


 だんだら だん

 地の底から這うような、


 だん、だらだだん

 ほんの数ミリ離れた傍で聞こえるような、


 だんだ らだん

 薄皮一枚首繋がり。


「月天」




 空は猫のように微笑う。



***


 その存在が「月天」であることは四日前、この島に打ち上げられて知った。

 打ち上げられたというのも少し正しくない。性格には羊頭の船を襲った暴風雨は、畳むのが間に合わなかった帆を引き裂くどころか、最近損傷の激しいマストに亀裂を入れ、挙句の果てにチョッパー、ウソップを暴風が攫い、その角を、脚を掴んで引き寄せたもののかわりに風の渦に巻き込まれた―――つまり、ゾロと、サンジが。
 風に手足の自由を奪われ、岸壁に叩き付けられた。つまりは島に叩きつけられるように、辿り付いたのである。陸地でよかった、と思ったのは、荒れに荒れた海の中に落ちても泳ぎ切れるかどうか、どちらが楽かを考えた。(勿論、死ぬ予定はないのでその可能性は元々脳裏に存在しない)
 嵐がおさまり、夜が明ければあの船の連中が、やっと、二人の存在がいなくなっていることに気づき、探索しはじめることだろう。夜が明ければ。―――岸壁に引っかかり意識を醒ましたゾロはそう考え、ふと、自分と、そして間近に転がっているサンジが実に危険な場所に横たわっていることに気づいて少し慌てた。
 両手でしっかり今にも崩れ落ちそうな岸壁を掴んでいなければ、体重を支えるのもやっとだった。サンジに手を伸ばそうとしてバランスを崩しかけ、足元の石が荒れる海に落下する。今だに叩き付けるような雨は目に、口に、容赦なく入りこみ視界を奪っていた。
 容赦のない冷たい水滴が礫となって体温を奪い、舌打ちしながら、ゾロがぐいと首を伸ばした。そろそろと慎重に移動しながら意識のないであろうサンジの後ろ襟に噛み付き、ぐいと引き寄せる。手足が駄目なら顎がある。そう考えて天辺を睨んだ―――遠くなかった。
 もう一度。
 しっかり、襟首を噛んだ。しかも喉を絞めないように気を使って(!)シャツの方ではなく、スーツの方を噛んだ。もっとも、男一人の体重を襟首だけで掴み上げるのだから引っ張られた衣服がぐいぐいとサンジの肌に食い込んだが、それはゾロの知るところではないし、だいたい何故目を覚まさないのか、打ち所が悪かったら「ここはだれ、わたしはどこ」になるのだろうか、ならば再度ゾロは正しく、このいつも態度のでかい男に自分はマリモでもハラマキでもデコっぱちでもなく、剣士のゾロであることを認識させようか。だが、本当にパーになったら料理は作れなくなるのだろうか。
(くだらねえな)
 アホらしくなって、顎にだけはしっかり力を込め、しかし噛み千切らない程度に調整して崖を這った。やがてゾロの執念(ないし、生き汚さ)に気後れしたか、天候はいつしか小雨に切り替わり、ゾロは何度も瞬きせずに済んだ。
 雲が割れて、必死こいて腕を動かしている自分の指にそれが当たった。
「うう」
(こんな時に気づくな。もちっと気絶してろ)
 結構な外道なことを内心吐いて目覚めかけてるサンジの後ろ頭を睨み付けた。相変らず噛んで運んでいるために、サンジの表情などわかりもしない。
「クソ、なんか全身がいてえぞ」
(そりゃお互い様だ)
 むぐう、とゾロが唸り、やっとサンジは自分が宙ぶらりんになっていることに気づいてぎょっとした。「は、あっ?!」
「なんだ、これ!? ―――てめえ、クソ剣士かっ!」
「ム」
 しかし自分が咥えられながら運ばれていることは今だ認識し切れなくとも、今暴れるべきでないことはさすがに本能でわかったらしいサンジは慌てて腕を伸ばし、自分で岩肌を掴んだ。金髪男が足場を探る間、尻のあたりに膝を押しこんで体を支えてやったのもゾロにしては非常に努力した親切である。
 さて荷物は勝手に目覚め、騒ぎ、もたつきながらも自分で這いあがろうとし始めている。微かにだるくなった顎を鳴らし、ゾロがさっさと登ろうとした際にそれは、起きた。
「―――明るい?」
 嵐だったのに? そう促すサンジの声に、おう、とゾロは答えた。
「多分、おさまって月が―――」

 だんだらだん。

 妙な音が聞こえた気がした。

「ォあ」
 気の抜けた声をあげたサンジを睨もうとして、不意に目に入ったサンジの目が変色していることに気づいてゾロはぎょっとした。記憶違いでなければ、しっかり空気を含んで良く混ざったビー玉みたいな青い色が、鈍い銀に変わっている。
「そりゃ何の芸だ」
「―――芸? なに、い、」
 唇を結んだかと思えばサンジは片手を斜面の厳しい岸壁から剥がし、
(アホか、落ちる…ッ!)
 ゾロの腕を掴んだ。引いた。岩が脆くも崩れる。落ちるのは、ゾロの方だった。
「なんのつもりだ、てめェッ!」

 だんだ、らだん。

『泡沫となれ』
 サンジは微笑み、体勢を崩して数メートル下にずり落ちたゾロの肩を容赦なく蹴った。声が老人のようにしゃがれており、料理人の声帯からは発声し得ない音が産まれる。
 つまりは―――

 サンジでは、ないというだけの話。

 頭に来て、上から転がる岩屑を物ともせず這いあがり、とりあえずぶん殴るのが先だと思った。
 思ったようにゾロが、海に叩き付けられなかったのが不満か、とりあえずサンジの姿をしたそれは喉の奥で獰猛にうなり、剣士の腕に思いきり噛みつき、容赦なく暴れた。
「この、アホ!」
 思いきり頭突きして、一瞬意識が混濁した料理人を再度咥えて運ぶ羽目になり、情けない気持ちで剣士は這い上がった。今度は急ぐことを重点に置き、容赦なく足場が崩れ、削られていくそれを無視して進めば、やっと平らな場所に辿り付く。
「起きろ、ぐる眉。てめえ、とうとうイカれたか」
 とりあえず先ほど噛み付かれた礼に、結構力をこめて頬を張ると相手が唸りながら目覚め、
「しっかし何があったんだ。てめえ、薄気味悪い色の目ェしてたぞ。変色だ、変色」
「―――てめ。口ん中切れたじゃねえか!」
 目覚めてすぐにファイティングOKの体勢になれるサンジにやや感心しながら、しかし言葉は無視してゾロは周囲を見渡す。空は暗雲が消え、月だけがまじまじ二人の人間を見下ろしていた。「何もねえな。変な音が聞こえたと思ったんだが」
 だんだらだだん。
(お、聞こえた)
「おい、ところでクソ剣士」
「何だ」
「てめえの目の色、変だぞ」

 そうして、今度はゾロが水銀のような目を細めて、サンジに向かって、抜刀したのだ。











 我武者羅に刀を振るうゾロであってゾロでないものなど、所詮サンジの敵ではない。
 適当にあしらって刀を蹴り上げて(ちなみにこれはオフレコだ。剣士のタマシイだなんだと、バレるとうるさいからだ)てめえは誰だコラ、クソ剣士はそんなクールな目の色じゃねえ、もっと下品な金色だ、と胸倉掴んで揺さぶると、
『月天』
「あぁん? なんだそりゃ」
『我等は形を持たぬもの』
「え? なに、もしかして、それってこのアホマリモに憑いてんの? 寄生? うひゃあ、趣味悪ィなオイ!」
『喧しい人の子よの』
「黙れコラ。クソ剣士の面で言われると余計ムカつくんだよ」
『気が狂い、血肉を啜り合って死ね』




 生ぬるい拳を避け、容赦なく腹部に足をめり込ませる。腕に食らい付かれ、短い悲鳴が迸り、仕返しとばかりに容赦のない攻撃を打ち返す。鼻に拳がめり込み、軟骨が潰れる音が俄かに耳につき、かくして正気と狂気は入れ替わり、剣士の耳朶は三つの飾りごと引き千切られかけ、慌てて頭を押さえ込み腕の関節を外した。がぁあと吼えられ、威嚇を受けて睨み返しその顎を容赦なく柄で殴る。爪は立て続けに皮膚を掻き、唇から口腔へと侵入した指が柔らかな内臓へと直結する部分をぎりぎりと引き裂いた。思わず齧り返し、横っ面を叩く。暴挙のような足が、膝の皿をしたたかに打ち、骨が軋んだ。




「は、早くくたばれよ…ッ」
「こっちのセリフだ、畜生め!」












 三日目の夜に、やっと、月が、原因だと気づくまで。
 阿呆二人は容赦なく月を見上げ、先に見上げたほうが『月天』に憑かれ、相手を殺す気で飛びかかった。
 三日間死ぬ物狂いで、それこそ殺し合いをしていた。正気のほうが相手を殴り、ひたすら夜は戦いつづける。頬を掻き、腕を握り潰し、皮膚を齧り、けだもののように飛びかかる。
 昼はやっと月が陽光に隠れて薄消えるので、疲れ果てた体を回復に費やし、あるいは船影に目をこらし、さほど大きくもない島を探索した。
 二日目の朝に見付けた水源のそれは、唯一この島にあるものだった。が、一口含んだサンジが喉を押さえてもがき苦しんだから、この島の水は飲めないことを知り、また昼夜関係なく氷の箱に閉じ込められたかのように寒さが続くことも、知った。知りたくないことばかり知り、ゴーイングメリー号の姿はいまだ見えない。

 だんだら だだん。

 大きな鍋を頭に被って、外からお玉か杓文字でごぉんと叩くと共鳴したそれが響く。
 あるいは太鼓だ。原始的な祭囃子。銅や錫の鐘を揺らして、足を踏み鳴らし、耳から心臓から腹の下まで、空洞に響く太鼓の音―――それが聞こえ始めると酩酊と浮遊、気分が良いのか、果たして内臓が焼け落ちそうなまでに脂汗と戦う具合の悪さか、わからなくなる。
 要領が悪い喧嘩っ早い二人組は、取っ組み合って、殴り合って、ただでさえ消耗の激しい地において貴重なカロリーを削って行った。
「腹へったな」
 初めてそんなことを口にして、空腹感からの眩暈か、微かに視線を落として首を振ったゾロを見て、サンジは胸につまされる思いを味わった。
「まあ、死なねェけどな。腹は減るよな」
 ごしごしと寒さで硬くなる皮膚を擦りながら言うゾロの背中を眺めていると、悔しくて涙が出そうになった。料理人としての誇りと大事な両腕を奪われたような気がして、食料がなければこの相性の悪い剣士すら、満たしてやることもできない自分に激しい憤りを覚えて、ぎりぎりと歯を噛み締めていると、

 だん だだら だん。

(あー。頭いてえ)
 隣の男は天空の忌々しいそれを見ないように、しっかり瞼を閉じて横になっている。


  鐘のおと。

 だんだら だだん、

   大地のおと

だんら だら だん

祭りのお と、

 だん、だらだ だだん だん



「気が狂うだろうが、コラァ!」
 サンジは吼えた。
「うるせえって」
 答えるようにゾロはむくりと体を起こし、さっさと眠らないとまたキチガイになるぞ、と平然とのたまう。
「こんな寒さで寝れるてめえがどうかしてんだよ」
「そうか」
「―――もう四日だぜ。こんな寒くてしかもヤバイのが棲みついてて水は飲めねぇし変な岩ばっかりだし腐った木が積んであるようなよくわかんねえオブジェがあるだけだし月見たら頭パーになってお互い襲い合うし。
 なあ、襲い合うってちょっとエロくねえ?」
「いいぞ、そこから海に飛び込んでも。下は岩礁が続いてやがるし、崖は急斜面で登れねえけどな」
「あーッ! レディにお会いしてーッ! こんなムッサムッサムサムサムッサくっるし〜い野郎なんかと四日も過ごしてしまいましたマドモワゼルこの荒んだ心を柔らかなきみの指先で癒してぇ〜!」
「うるせえ、うるせえ」
 しっしと片手で追い払われて、サンジはけっと悪態をついた。
「こんなところでハッピィバースデーおれ。空し過ぎて涙も出ねぇ」
「――――――…は?」
「涙出ると勿体ねえよな。水分」
「いや、違う。……誕生日?」
「おうよ。一つ大人になったおれの魅力五割増だ。惚れるなよ」
「惚れねえよ」
「いや、どうかな〜。おれがもしレディだったらお前、メロメロだったかもしれねえぜ?」
「アホか。なんでてめえが女なんだ」
「まあ、想像上のお遊び程度だ。おれァてめえがレディだったら………惚れてたぜ」
「………ッ!」
 にっこり「レディ専用の」笑顔を向けられてゾロは鳥肌を立てた。
「ははは」
 笑顔は狂気だった。ゾロに何かが纏わり憑いている間、視界も感覚も侵入され、不快感に吐き気を覚え、吐くものがなにもないことに気づき嘆息した。眼球を銀に変貌させた剣士に対し、料理人はまるで食材を吟味するかのように上から下までじっくりかれを眺め、ふっと笑うのだ。サンジは、微笑う。助からないのに、くたばるのに、息、欠落と、絶望がひた、ひたひた、それなのにあれの頬は笑い、簡単に剣士の脳裏を埋め尽くした。支配だった。
(赦せるか?)
 味わい難い心胆の冷えと、緩やかな愛撫に似た、さざめき。

 だから、

(この男がこの男でない限りは)
 逆にその喉を噛み千切って啜ってやろうと、獰猛に鯉口をかき鳴らす。
 ゾロが正気を取り戻しても、相手の寝首を狙う周到さが身にまとわりついた。



 この殺伐とした日に何回目かの誕生日を向かえた男は、ぐしゃぐしゃになった煙草を咥えながら笑った。
 三月二日。ゾロは数度瞬き、暗黒の波間を睨んだ。そして、一呼吸置いて言う。
「草木萌動す、弥生。三日はうらうらと長閑に照りたる」
「何語だそりゃ」
「俺の居た処の、今ごろの季節のこった。昔聞いたが、正式なのかどうかは知らねぇ」
「そうもく…なんだって?」
「草木萌動す。くさきが芽吹く頃合の、今の月はついたちから三日はのどかで気持ちのいい時期だ」
「………草木が、ね」
 嫌味と捉えたか、サンジはシニカルに片頬を歪め、見ろよ、と地面を指す。
「こんな、水も土も死んだ島にうちあげられてそんなのどかにしてられるかよ」
 春島の温暖な空気とも程遠い。偉大なる航路では、季節すら定まったものではないというのに、ゾロの言葉は心底皮肉に聞こえる。
「そうか?」
 ゾロは眠たげな声で言った。
「さっきのてめえは能天気そうだった」
 反発しようと息を吸ったサンジは、ゾロのその何気ない視線で呼吸を止める。
「てめえの中に俺の知る三月二日が息づいてる。てめえの中に季節がある。能天気で無駄に眩しい、風の柔らかな季節だ」
 そういいながらそれこそ、若草色の髪をした男は同色の睫毛の下で陽光の目を細め、舌を出した。
 ―――昨晩、月天だったサンジが食らいついた舌だ。思いきり貪り、噛み千切ろうと暴挙を働き…ゾロは見ていた。それを、軽い抵抗だけで、サンジの目を、銀色だ。あまり美しいとは言えない鈍い銀。濁ったような、毒々しいそれを制し、支配された網膜の奥で青がざわめき、葛藤、屈辱。ゾロは見ているだけだ。舌を持っていかれようとしても、平然とそれを眺める、眺める、目、見透かす、赦せない。

 だから、

 サンジは支配される力を阻んだ。あの生ぬるい体の一部を噛み千切る捕獲者は 自分 月天 であるはずなのに、あの男 剣士 ロロノア、ゾロ ―――支配?される?誰が!
(赦すか!!)
 サンジが正気を取り戻し、べっと血反吐を地面に噴き出すと、ゾロは片頬を微妙にゆがめてみせた。どうやら笑っているようだった。



「そろそろ此処を出てもいい頃だろ」

 グランドラインは広いのだ。今、此処で、この島を出れば今日中に春島に、あるいは天候の目まぐるしい航路で春の穏やかさにめぐり合うこともあるだろうか。
「月天が何だか知らないが、怪しいとこはすぐぶっ壊せばよかったんだよな」
「―――ぶっ壊すって何処を」
「アレ」
 指差した先に腐り落ちた木が転がっている。
「ありゃあ多分社のあとだ」
「ヤシロ?」
「神と呼ばれた存在が、朽ちて、奉られることもなく、こうして島に放置されて祟りを起こす。まあ、俺にはどうでもいいが、八つ当たりされても面倒だよなあ」
 すらりと抜いた和道一文字が月光を反射してきらりと輝き、
「―――邪魔するんなら叩っ斬る」



 だんだらだだんだんだん殺さないで
 だんだ らだら だだんひとりにしないで
 だら だだん だらら だここから出して

 月の下に出して


「あ。骨だ」
 霧散した木片を足で避けて、サンジはその朽ちた社からその白骨を見つけ、人間のもんだなあと確信する。
「何だよ、まだガキのじゃねえか」
 触れただけでも体温を奪われるような岩に埋もれ、社だか墓だか、とにかくその骨の家は無残に腐りおちて、さぞかし冷たかったことだろう。
 二人はしばし黙り、海を睨んだ。大地から響いていた鐘の音も、太鼓の響きも聞こえない。
「おい」サンジは立ちあがり、天に中指を突き立てた。
「今からおれは月見をすることにする」
「いい御身分だ」
 鷹揚に頷いた緑頭を皮肉げに見、サンジは空を見上げた。
「いいお月様じゃねえか。せめてこの気温だけでもどうにかならねえと、おれはとうとうテメェと肌をくっつけて、暖を取る最悪の方法まで思い浮かべちまう。しかも実行する気だ。なあ、ナミさんたちは見つけてくれっかな」
「知らねえ、そんなん。明日の天気だ」
 ところで、とゾロはサンジの中指をまじまじ見つめ、
「こうじゃねえか?」
 人差し指を立て直した。指には少し血が通っていて、刺した先には何の変哲もない月がある。


「帰ったら風呂だな」
「その前に飯だ」
 




「とりあえず、まだ生き延びなきゃなんねえから」
 サンジの蒼い瞳がゆっくり、笑う。
「気を狂わせてみねえ?」

 月さえも踏み躙れ、この猛々しき正気狂いの絶対、

「ベッドでな」

 ―――生存論。



■遅くなって申し訳ありません(毎度!)
■斬番4711リクエスト「死なない、二人」
■ちゃらさん、リクエストありがとうございましたー!

03/03/02


Return?


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送