あひるのおつかい





とある日曜日、平穏な住宅地のある台所は非常に緊迫していた。
おもむろに冷蔵庫を開けた母親が、かなりぎこちない動きで居間に振り返り、明らかな棒読みで「卵がないわ」と言い放った。それが合図だった。
「やだ、買い忘れてた」
「えー! 今日はせっかくのすき焼きなのに!」
「困ったわねえ」
とっさに卵について母を責め出した三人の姉たちの演技はまだマシではあったが、どうしてもなんとなしの固さは否めない。家族の微妙な小芝居は、しかし全て末っ子の長男に向けられたものだった。

「ちょっとあんたたち誰か買ってきてよ」
「えーやだ、テレビ見てるし」
「私今電話待ってるから」
「この寒いのに外に行く気なんかないわよ」
速攻拒否を言い立てた姉たちに母親が困ったような顔をすると、絶妙の流れで金髪の幼稚園児が立ち上がった。

「オレが行ってくる」
「ダメ、サンジはまだ一人じゃ無理よ」
「平気だよ、いつもおかあさんと行ってるスーパーだろ」
「ああ、じゃああんたたち誰かついてってあげて」
「いやよ寒いし。サンジももう5歳なんだから大丈夫でしょ」
「そんなこと言ったってねえ…」
「大丈夫、オレ行ってくる!」

一週間前から密かに練られていた作戦は完璧だった。母親思いの息子はさっそうとアヒルのポシェットを肩から下げ、「いってらっしゃーい」というやる気のないリビングからの声援を受けて意気揚々と家から15分のスーパーへ玄関を出ていった。そしてその1分後、本部となった家に母親を残した三人の姉たちは、身のこなしも軽やかに裏口からそれぞれ街へと散っていったのである。



サンジは5歳、これでもかというほど愛情を注がれまくって育てられた、ノース幼稚園アヒル組に通う園児である。すくすくと大の女好きに育ちつつある彼は、概して幼児にありがちなキス癖によって1km四方の大人の心を完全に掌握するスーパーアイドルであった。
そんなサンジは今まで一人でお買い物に出たことがない。そろそろ初めてのおつかいかしら、と母と姉たちはテレビの影響も手伝ってか、彼に少し冒険をさせることにしたのだった。

しかし大事な末っ子に万が一のことがあってはならない。そこで姉たちは、後をつけつつ見守る班、先回りして危険を排除する班、全体を管轄する班に分かれて、サンジが安全かつ円滑に卵を買って帰れるよう暗躍することになった。ここまでくればいっそおつかいでもなんでもないような気もするが、弟を猫可愛がりしている姉たちとしては、巻き眉も愛らしい彼を一人で放り出すなんてとんでもない。





「えーこちらナミ。前方200メートル地点でカツアゲをしていた中学生を排除ーどうぞー」
「こちらビビ、サンジさんに今のところ異常はありません、どうぞ」
携帯で密に連絡を取りつつ、二番目と三番目の姉はサンジを微妙にサンドイッチする形でじりじりと前進していた。サンジは隣に住む高校生と連日果し合いをしているお陰か戦闘能力はかなり高いが、今日は不良を叩きのめして町内のチャンピオンになっている場合ではない。

自分一人におかあさんのお仕事が任されたのが嬉しいのか、サンジは足取りも軽やかに家から最初の交差点に辿り着いた。赤信号が青に変わるのをじっと待っている。
すると反対側に幼稚園の友達を見つけたらしく、さかんに手を振り出した。ビビがあわあわと見守っている先で、彼らは大声で流れる車越しに会話を始めてしまう。

「おールフィー! どこ行くんだよー!」
「今からおうちに帰るとこー」
「へー」
「サンジも来るかー」
「いやー、オレ今おつかい中だから行かねー」

辺りの迷惑など全くお構いなしな幼稚園児の怒声はかなりにぎにぎしく響き渡ったが、今にも二人がお互いの方へ駆け寄ってしまいそうでビビは気が気でない。すると案の定、向こう側に立っていた黒髪の子供の方が、もどかしくなったのかこちらへ駆け寄って来ようとした。だが危険を察知したビビが足を踏み出そうとした瞬間、サンジがものすごい勢いで側の電柱を蹴りつけた。
「オラ何やってんだこのクソゴムが! 横断歩道は右を見て左を見てもう一度右を見てから渡れってあれほど習っただろてめえまだ覚えてねえのかこれ以上マキノ先生困らすようだったらいい加減エポール食らわして奥歯ガタガタ言わさすぞ!」

それは道行くお婆さんがびっくりして立ち止まるくらい歯切れがいい罵りで、思わず交差点はしんと静まり返った。だが結果としてどちらの園児も無傷のまま青信号を待ち続け、今度はお子様らしい挨拶ができたのでよしとする。電信柱がちょっと斜めになっているのもビビは見なかったことにした。



その後もてくてくと道を進めるサンジだったが、10メートル先の公園を視界に入れた途端慌てて走り出す。後ろの角に隠れていたビビが慌てて追いつくと、サンジは砂場に一目散に走っていき、立っていた小学生にその勢いで飛び回し蹴りを喰らわせた。
うわあ、とビビが遠い目になってしまうくらい、その威力は凄まじかった。前に倒れて滑り台で頭を打ったらしい太目の少年が咄嗟に振り返る。

「ほっほー! 何すんだ!」
「お前ウソップのこといじめんなってあれほど言っただろうが団子野郎。またコンカッセ食らいてえのか」
眉間にびきびきと筋を浮かしながらメンチを切る弟の勇姿にビビが小さく拍手をしていると、団子にその長い鼻を持たれていたために一緒に砂に埋もれる羽目になった、サンジの友人らしい園児が遅れて立ち上がった。

「おおサンジ、助けに来てくれたのかお前ってやっぱりオレ様の親友っていうか」
「てめえもてめえだ、男だったらいい加減意地見せろっつてんだろ、こんな団子埋めちまえ、砂場だからバレりゃしねえ」
それからしばらくサンジの教育的指導は続いたが、おつかいの途中だったことを運良く思い出したらしい彼はお友達にさよならをして公園から走って行った。お友達はおろか小学生までも涙目にするなんて、さすがサンジさんだわ、とビビは感心しながらその後を追った。



歩道橋を渡りきったとき、こーにすちゃーん、とやに下がった声を上げてサンジは残り20段はあった階段を軽々と飛び降りた。地元の楽器店のウィンドウの奥に、お気に入り店員を見つけたようである。サンジに気付いたらしいコニスもにこにこしながら外に出てきた。今日も元気ね、サンジさんお菓子食べますか? と言われてうきうきとお返事をしたサンジは、コニスに連れられて店の中に入っていってしまった。こうなるとサンジは長い。遺伝子に書き込まれたレディを喜ばせたいというサービス精神にスイッチが入ってしまい、相手を一笑いさせるまで満足しないのだ。

スーパーはもう目の前なのにどうしようどうしよう、とビビが慌てていると、思いの他時間がかかっているので心配して戻ってきたらしいナミがやって来た。
「ちょっとなにやってんの、遅いじゃない」
「サンジさんがコニスちゃんのお宅に遊びに行ってしまって…」
「もうしょうがないわねー、誰に似たのよあの癖」

ナミはぶつぶつ言いながら、「パガヤ楽器」と書いてある店の自動ドアをじっと見つめた。薄茶色の目に一瞬ものすごい力が入り、ビビが小さく悲鳴を上げた瞬間、サンジが店から飛び出して来た。すごい速度でスーパーへ向かっていく。
「…ナミさん、何ですかそれ」
「え、眼力眼力」
サンジくんはほら、小さいころからこれで鍛えられてるから、と高らかにナミは笑い、先回りすべくスーパーへと走って行った。ほんとにこの人たちと私、血が繋がってるのかしら、と少しビビは不安になって立ち尽くした。



そしていやに真剣な形相でスーパーに乗り込んだサンジは、店員のお姉さんやレジのおばさん、ひいてはそこに並んでいた近所のおばさまたちにまで愛想を振り撒くことを忘れずに、無事卵一パックを買い切った。母親と毎日のように来ている場所なので、食品売り場などもう自分の庭当然なのである。賞味期限表示もきちんとチェックし、新しいものを奥から出させる常連っぷりだ。

卵を袋に入れてもらい、いそいそとまたスーパーから出てくるサンジを確認して、車や自販機の陰から見守っていたナミとビビはほっと一息をついた。一番の難関もクリアできたことだし、後は帰るだけである。卵持ちのサンジはさすがに寄り道したりはしないだろう。

その時、短い足で懸命に歩くサンジの前を、中学生のチャリ集団が急に横切った。無駄に片手運転しながら大声で喋りつつ携帯を眺めている彼らには、背の低いサンジは見え辛かったらしく、慌てて園児を避けたもののうっかり前輪に引っ掛けそうになった。
持ち前の反射神経でタイヤを避けたサンジだったがそこは所詮6歳、思わず卵を投げ出してしまった。

ナミの方はそのまま去っていく中学生をものすごい勢いで追いかけて行ってしまい、残されたビビの前で、サンジはうるうると目に涙を溜め始めた。調子よくここまでやってきながらもやはりずっと緊張していたのだろう、これで気が抜けてしまったのかもしれない。
これはやばい、もうおつかいどころじゃないわサンジさん、卵はお姉ちゃんと一緒にまた買って帰りましょう、とビビが駆け寄ろうとしたとき、竹刀を背負った高校生がひょいとビニール袋を拾い上げた。



「アヒル組、んなところで何泣いてんだ」
「…ぞろ」
ひょいっと黄色い頭が見上げた先には、緑頭の隣に住む幼馴染が怪訝そうに立っていた。サンジが慌てて涙を拭う。
「ていうか泣いてねえ」
「おおそっか。つうかこの卵なんだ、うわ、割れてんじゃねえか」

ぞろー、と強靭な脚力で178センチの胸元まで飛び上がったサンジは、学生服にしがみ付いてびーびー泣き始めた。部活帰りによく知った幼稚園児がスーパー前で蹲っているのを発見したゾロは、「んだやっぱり泣いてんじゃねえか」と慣れた調子でよしよしと撫でてやる。
「おお、じゃあオレと卵買って帰るか」
なんとなく雰囲気で事情を察したゾロは、アヒルポシェットの中にまだお金が入っていることを確認すると、サンジを抱えたままスーパーに入っていった。一泣きして満足したらしいサンジはもう復活して、お気に入りの幼馴染に涙と鼻水まみれでお帰りのチューをしてご機嫌そうである。

「おうただいま。 お菓子とかも買うか?」
「これからすきやきだからいい」
「ほー、豪勢だなー」
「てめえ今日の練習試合もちゃんと勝ったのかよ」
「おお、全部一本勝ちでな」
「当然だこのクソマリモ、オレ以外の奴に負けやがったらもうあれだ、離縁だ離縁」
「お前まだその言葉の意味間違えてんのか。だからそれを言うなら絶交だろ」

仲良く自動ドアに消えていく二人組を見送りつつ、ひとまず安心だわ、とビビは急いで走って帰った。サンジが戻ったときに自分たちが家にいなくてはまずい。中学生をシメているだろうナミが間に合うといいのだが。





ゾロと共に帰還したサンジはなぜか涙交じりの母親に迎えられて速攻熱い抱擁を受け、後ろでうんうんと頷く姉二人に不思議そうにしながらも、誇らしげに卵を手渡した。連れ帰ったゾロも勢いで御相伴に預かることになり、結局隣から両親も呼んでニ家庭によるすき焼き祭が開催された。
大人たちに「いやー、さすがサンジくんの買ってきた卵はおいしいわー」と散々褒められた園児は上機嫌で、もうくたくたになってしまったのか食後すぐゾロの膝で眠ってしまった。まあ無理ねえよな、とこっそり事情を耳打ちされたゾロがほのぼの眺めていると、玄関で物音がして長女が疲れた様子で帰ってきた。

「うわロビン、今まで何やってたの」
「ああ寒かった。私の分残しておいてあるわよね」
「そりゃ残してあるけど…」
すっかり冷え切ったらしい手をストーブで焙りつつ、ロビンは寝ているサンジを確認してほっと柔かい笑みを浮かべた。
「ああ、無事に帰ったのね、よかったわ」
「ていうかあんたどこ行ってたの、サンジくんが帰ったのってもう二時間くらい前よ」
ただでさえ秘密の多い長姉にナミが不思議がっていると、冷蔵庫からロビンの分の肉を取り出してきたビビがくんくんと鼻を利かせた。

「あれ、姉さんなんか海の匂いがする」
「は? 海?」
すると長女は優雅に椅子に座り、鍋に肉と醤油と砂糖を入れつつ何でもないように相槌を打った。
「ほら、最近はおかしな人が多いでしょう」
「え」
「うちの子は本当にかわいいから、変な大人の目を引きやすいじゃない」
「………」
「ああいう人たちって、話が分からなくて困るわ」



金髪で青い目の幼稚園児を守るために長女がなぜ海に行く必要があったのか、怖いのでそれ以上誰も詮索しないことにした。爪の間にコンクリートが挟まっていても見ないことにしよう、とゾロは熟睡するサンジの頭を撫でてやりつつ、あるある大事典に夢中な振りをした。ビビの方は、ああ、砂場に埋めるって教えたのは姉さんね、と一つ疑問が解明されたようである。


◆故drawn beyond(死んでない。心の中にいつもいる)のフジワラシナさんから、遺産(死んでない)をいただきました…もといお誕生日プレゼント&愛の証だー!
◆マラは真面目におかしい権力者となるべく虎視眈々と世界を伺い、暗躍するさなかゾロサン界に置き土産を残してくれました。ありがとうハイル。超大事にする。
◆drawn beyondは永遠です。

04/01/10

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