印 虎




 無邪気な狐がゾロに近寄ってきたのは初夏の頃だったように記憶している。
 恐らくは春先に産まれたのだろう。産毛で包まれているような頼りなげな毛並み。子どもらしく灰色のような毛はツンツンと八方に逆立って、あるいは蒲公英の綿毛のように落ちつきなく風に揺れていた。
『寄るなチビ』
 ゾロは瞼を閉じたまま、好奇心だけで近寄ってこようとする、危なっかしい足取りの幼い仔を制した。
『どうして?』
 どうして寄っちゃいけないの。愛くるしい目が問いかけるように潤み、首が微かに傾げられる。
(―――全く、こいつのお守りはどこにいやがる)
 こんな、乳離れもしていなさそうな幼い狐をひとり出歩かせて、ゾロでなくとも別の肉食獣が簡単に小さな狐の息の根を止めただろう。蛇がいる、梟がいる、鼬がいる。柔らかい肉だ。骨も簡単に砕けるだろう。
『俺はお前が目を瞑った一瞬で、お前のひとのみに出来る』
 去れ。これ以上は寄るな。
 命がないぞ、と随分冷たく、そして怯えさせるために獰猛に言ったはずなのに、思えば間の抜けた仔狐だった。
 ゾロが折角威嚇してやったというのに怯えもせずに近づいて、だからゾロが牙を剥いて咆哮するまで、虎の恐ろしさをちっとも理解しなかったのだから。
 あんまりにしつこく寄ってくる狐の首根っこを咥えて向こうの茂みに放り投げたこともある。幼い狐は遊んでくれているものと勘違いして、きゃっきゃとはしゃいで寄ってきては「もっかい!」と促し虎を瞠目させた。
 知能は高いのだろう。元々狐という種族は関わり合いになりたくないほど狡賢い。誑かしと騙しの専門家は時折思い出したように人里に降りて人を化かして遊んでいる。
 この狐は産まれ落ちて間もないというのに、多種族の言葉も理解できるし、すぐに他の生き物に化けるようになった。獣の匂いも落ちて、百年もしないうちに強い神通力を持つだろう。
 なのにあろうことか虎の恐ろしさを知る前に、虎に…ゾロに遭遇してしまった。大抵の狐はゾロを恐れて近寄ろうとしない。しかしサンジは頭は良くても恐れを知らない…経験したことがない。一族の幼い子がおぼつかない足取りで寄っていっても、肢を咥えて静止することもできないのだ。狐の一族にとっては勿論、ゾロにとっても今サンジの小さな体がゾロの腹におさまってないのは偶然か奇跡にほど近いと言える。
 茂みに隠された土の窪みは、朝のひと雨で湿って水溜りができていた。泥んこになって、しょげかえったように耳を伏せて現れた狐を見て、仕方がないとゾロが顎で促したのも原因である。
『なに? なにするんだ』
 半身を泥だらけにして寄って来る狐の顔に、大きな舌を這わせるとサンジがわあ! と目を瞑った。
『どうして舐めるの』
『毛繕いだ。知らねェか』
 大きな舌が顔をざりざりと舐める感触に、こぎつねはおっかなびっくりしていた。
『ざらざらする』
『…そうだな。俺の舌と狐の舌は違う』
 べえ、と大きく肉厚の舌を出して見せると、サンジは目を真ん丸くして、
『うひゃあ、でっけえ』
 おれも、おれも、と小さな舌を出して笑ってた。結局ゾロの真似して狐は自分と、そして相手の毛を繕ってやる術を覚えたし、舐めることで毛並みを整えることもできるし、傷を治すこともできるのだということを知った。
 ひとしきり汚れを払ってやり、顔に飛んだ雫も舐めとってやるとサンジは大人しく目を瞑って体を伏せていた。
『けづくろいって気持ちいいな』
『てめえで舐めて綺麗にしとけ』
 あとは知らんと、ふいと顔を背けたのに相手はすっかり毛繕いの虜になってしまったようである。
 嬉しそうに目を輝かせて後ろ足で勢い良く飛び跳ねた。
『けづくろいって仲良しがやるんだよな』
 ひとの姿でひょっこり現れるようになったときも、膝小僧を擦りむいた姿で笑って、
「ゾロ、怪我したから舐めてくれ」
 ―――恐らくは甘やかしてしまった虎にも、罪はあるのだ、と。



 別れというものは出会いと等しく突然起こり得るもので、どこか鷹揚としている稚き狐が、一族共に海を渡ることになったと聞いたとき、虎はああそうかと頷いたのだ。
 最近では年を食って仙と化した女狐が力を振るって我が物顔にひとの領域を侵していると聞く。また幼い狐もあやかしへの道を進み、崇められるどころか疎ましがられ、挙句狩られても仕方がないほどに追い詰められている。
 サンジが我侭を言っているのは知っていた。あのちいさいのは、友達をおいて島国などへ旅立つことはできないと頑として言い張っているのだ、と。
 誇り高く飄々とした謎めいた獣たるあれら種族の使いが、わざわざ天敵の虎のもとを訪れ説得してほしいと頭をさげた。虎は力強く尾を振って勝手に縄張りを侵した狐を睥睨したが、計算高くまた同時に誇り高い彼らが、虎に謙るのをためらわなかったほどである。
 つまり、サンジはいまはまだあどけないが、健やかに育てばそれなりに力のある存在となるという証拠だ。
 強靭でしなやかな尾を掴んで、いまにも泣き出しそうな顔でうつむいている少年をうんざりとしたように見ながらも、はじめて同じように声を震わしていうつもりになったのは、単なる獣の気まぐれだ。
「お前がひとりで海を越えられるようになったら、大地を駆けてまた此処に来ればいい」
 あくまで虎は虎、狐は狐と突っぱねるはずだったが、大事な尾っぽをぎゅうぎゅうに掴まれては妥協も一案というもの。
 びっくりしたような目にぶつかって、ああ、人の真似して声など使うものではないとゾロは喉をごろごろと鳴らした。
 いっくらねだっても答えなかったというのに、最後の最後だと甘えを出したことを虎は驚く。まるで自分が腐抜けたように思い、ふんと鼻を鳴らしたが、サンジのほうは初めて耳にする虎の肉声に惚けているようだった。
「はじめてきいた」
 泣き出す寸前のような声色だと思ったら、小さな肩が本当に揺れている。嗚咽を堪えている仕種だとわかって、ゾロは慌てて再び口を開いた。
「俺は此処にいる。変わらずにいる。それとも一匹だけで仲間の助けなく、海を渡る自信がねェか?」
「ばかにすんな!」
 きっと顔をあげたサンジの目は潤んでいたけれど、尻尾を掴む力はさらに強まった。狐の姿ならば、それこそ尾を膨らませ髭をぴんと立てていたことだろう。
「すぐに戻ってきてやる。帰って来る。絶対だ、約束だ」
 やっと尾を解放されてほうとゾロが息を吐くと柔らかな首の根元に齧り付かれて今度は喉が絞められる。
「―――おい、てめえ」

「ああ。ゾロ、おまえをひとりぼっちにしたくない」

 虎は愕然として子狐を見やった。何を言ってるのか理解できずに、眩暈のような感覚がかれを襲った。
 孤独を否定されることなど、それまでにはなかったこと。
 まるで自分の匂いを擦り付けて、ゾロの匂いを覚えようとするかのように、サンジは必死に顔をゾロの喉にあててまるで牡虎をいたわるように何度も何度も手のひらでなでてきた。
 本気でこのちいさな存在は、自分の何倍もある巨大な生き物を友と思っているのだ。
「ひとりぼっちにしたくない」
 たったそのひとことの、サンジの言霊が未だにゾロを捕縛している。



2003/12/28 発行

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